第75期名人戦で防衛に成功した佐藤天彦名人。対局直後の表情は……、なぜか全然嬉しくなさそう。同じように、棋士はたとえ勝っても喜びを現さない人が多い。こんなとき彼らは何を考えているのか? 佐藤天彦名人が勝者の心境を、著書『理想を現実にする力』で語っている。
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勝負というのは、勝者がいれば当然敗者もいます。プロ棋士というのはある意味、人を不幸にして自分が幸福になろうとする残酷な職業です。
この社会はそもそも競争が大前提です。受験も就職も、他人を押しのけて自分が勝とうとします。みなが日々、競争をしているともいえるわけですが、この相手を倒して自分が幸せになるという行為に違和感や罪悪感を持っておられる方も少なくないと思います。
プロ棋士はこの競争に日常的な形で直面します。しかも子供の頃からずっと。
勝つことは嬉しいことですが、単純に「わーい」と喜ぶほど鈍感ではありません。相手を斬るという行為については、自分なりにいろいろと考えてきましたし、悩んだりもしました。
将棋は必ず勝敗がつきます。私自身もプロ棋士を目指し、プロになってからも頂点を目標にしてきました。だから勝ちを追い求めることは当然ですし、避けては通れません。目の前の相手を倒そうとするのは仕方がないことなので、それよりも倒したあとの自分のあり方が問われてくると思うのです。 私が勝った直後に心がけているのは、自分からはなるべく話しかけないということです。
対局後には感想戦というものが行われます。この勝負の分かれ目はどこだったか、あの局面はどう指すべきだったかと対局者と検討をし合うのです。これ自体は一見なごやかなムードに見えますが、感想戦がはじまる前、つまり対局が終わった直後は、重苦しい空気に包まれています。
勝ったのはもちろん嬉しいことですが、棋士は誰もが負ける側に回ることをたくさん経験しています。だからこそ、勝った喜び以上に相手の悔しさが痛いほどわかるのです。
その気持ちの切り替えにかかる時間は人それぞれですから、自分が勝った場合は相手が話しはじめるまで待つことにしているのです。