村上春樹の新作長編『騎士団長殺し』が発売されて、まもなく一ヶ月を迎えようとしている。各紙誌の書評も出揃うなか、翻訳家でエッセイストの鴻巣友季子さんが、村上作品の系譜を追いながら、その魅力と作品世界の広がりに迫る。なぜ男たちは親になりたがるのか? そしてタイトルにある「殺し」に込められた、鴻巣さんによるスリリングな仮説とは?
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「偉大な小説の主人公には子どもがいない」――「小説と生殖」なるエッセイでそのように書いたのは、チェコの亡命作家ミラン・クンデラだ。「ドン・キホーテに子どもがいないからこそ、その結末はこれほど完璧で最終的なものとなるのだ」と。
「村上春樹全仕事、本人による語り直し」の様相すら呈している『騎士団長殺し』だが、更新された点があるとすれば、それは「男が親になることをめぐる問題」、わたしが「押しかけヨセフ問題」と呼んでいるものである。長編としての前作『1Q84』は、かなりざっくり言えば、「理論で父を倒し、本能で母の子宮に還る物語」だったと言えるだろう。とくにBOOK3では、ヒロイン青豆が性交なしに懐妊し(聖母マリアの処女懐胎を暗示)、それをわが子として天吾に受け入れられる(天吾は養父ヨセフの役回り)。村上作品において「寿がれる妊娠(告知)」が描かれたほぼ初めてのケースだった。『風の歌を聴け』から「神の子どもたちはみな踊る」『ねじまき鳥クロニクル』、そして『1Q84』の途中まで、妊娠は相手に拒絶され、中絶され、ときには妊婦が自殺することにもなった。ここには共通するパターンがある。完璧なはずの避妊↓なのに妊娠↓相手に告知↓男性側の拒絶、または女性の意思で中絶、あるいは妊娠中の自死(未遂)。春樹ワールドは子どもが世に出てくるのを食い止めることで、あの静謐で生活感のない整合性を保っていた。アメリカのある批評家はこれを皮肉り、「次作は、殺し屋の妻と売れっ子作家の夫と、バンドかなんかやってる息子のいる家で、森の妖精さんが食事を作るんじゃないか」などと書いた。
青豆が子を孕むことconception(受胎)は、天吾の創作のconception(着想)にも繋がり、『1Q84』という作品自体に、好ましい矛盾と迷い、ノイズと破調をもたらし、ある意味、狂信からの目覚めが書かれた。次作では「赤ちゃんが生まれて保育園探しに奔走するような世知辛くてリアルな主人公の姿が見たい」と、当時わたしは書いたが、『騎士団長殺し』ではついに保育園が登場。主人公の「私」は毎日送り迎えをするのである。
つまり、「妊娠の受け入れ」から一歩進んで、子どもが世に出てきたということで、これは画期的だ。夜泣き、おしめ替え、パスタではなく離乳食作り、断乳騒ぎ、児童館でのママ友との悶着……などは書かれず、乳児期は飛ばすだろうと思ったら、やはり、「室」という名の女児はすでに五、六歳らしく、聡明そうで物静かだ。作品世界の調和を乱さない、都合のいい子どもとも言える。