ここで、特定の誰かを悪者にするのは簡単だ。けれど、百合はそうした考え方を選ばない。最終話、風見に好意を寄せ、百合を恋のライバル視する五十嵐杏奈(内田理央)が、自分の若さを強調して優位に立とうとするのに対して、百合が口にするのは「あなたと同じように感じている女性が、この国にはたくさんいるということ」への憂いだ。
「若さこそ価値である」といったような、社会からいつの間にか押しつけられてしまう固定観念を、百合は「呪い」と呼んだ。「呪い」は社会全体がはらんでしまっているものであり、特定の誰かの偏見を指摘するだけで、そんな風潮が変わってくれるわけではない。百合の姿からは、社会が抱える重苦しさが見てとれる。
当の百合もまた、その「呪い」にからめとられて、風見との関係に踏み込めずにいた。一方、風見は百合の年齢にせよ、ゲイの沼田頼綱(古田新太)に対しての見方にせよ、他の登場人物たちが持ってしまいがちなステレオタイプを疑い、フラットな視線を保とうとする。その背景には、自身が「イケメン」であることで受けてきた扱いに対する違和感が隠れている。これは、かつて外見だけで周りから勝手なイメージを押しつけられてきた、百合自身の鏡でもある。百合と風見の二人が互いに距離をつめていくと同時に見えてくるのは、それぞれが抱える周囲からの視線との葛藤だ。
●現代人の葛藤を誠実に描いた『逃げ恥』
もちろん、『逃げ恥』は旧来の固定観念に取り巻かれる息苦しさを、シビアで単純な告発として描いているわけではない。
大前提として、かわいらしいラブコメディーである。その中で、それぞれが社会をとりまく昔ながらの価値観に悩まされつつ、己もまた自分勝手な価値観を他者に押しつける瞬間があることに気付かされつつ、生き方を模索していく。最終話の終盤で平匡がみくりに対して言う「模索は続きます」という言葉の通り、他者との関わりも個人の生き方も、どこかで完成形に至るわけではない。そんな模索を生きる登場人物たちの姿は、やはり誠実でかわいらしい。