「木炭車を改造した車両は、前にボックスがあった。いろいろな形の電車を運転した」と語るのは、淡路鉄道の運転士や車掌を務めた大橋順郎さん(84)だ。1940年代後半に入社し、南海電鉄で研修を受けて58年、「甲種電気車」の運転免許を取得した。
始発の洲本駅から終点の福良駅までは、各駅停車で約50分。カーブも多く、電気の流れやブレーキのかかり方、速度の調整などに細心の注意を払って運転していた。乗客が『降りて押そか』と話していたという広田駅から長田駅へと向かう坂道は、乗客の人数や電圧の関係で上りにくいこともあり、ひやひやしたという。
運転には神経をとがらせたが、優美な形をした先山など、車窓からの風景は美しく、気に入っていた。通学に利用していた学生らが、客席と仕切られている運転席に入ってきて、「よく見えるなあ」と外を眺めていたことも、今では懐かしい思い出だ。徳島で阿波おどりがある時は、臨時列車を走らせて鳴門から船で戻ってくる島民らを迎えた。
廃線を知った時は、仕方がないと受け入れつつ、つらかったという。「車窓から見える道がどんどん良くなっていって、車の数が多くなってきたのを感じていた。(廃止が決まってからは)運転をしている時は朗らかにやっていたが、廃線と誰かが言うたびにつらくなった」と振り返る。さよなら運転は、宇山駅のホームから見送った。
50年の時を経て、現在もなお、人々の心の中で走り続ける淡路鉄道。洲本市立淡路文化史料館では、10月30日まで、懐かしの写真や行き先板などの資料を集めたミニ特集展示「淡路鉄道―廃線から50年」を開催している。当時の運行の様子などを撮影したモノクロ映像も上映されている。鉄道の遺構を訪ね、島の風景の移り変わりに思いをはせるのも良いかもしれない。(ライター・南文枝)