専修大学に進学後、徐々に出番を得て、大学4年時に球速150キロを計測した。逆指名でのドラフト2位で広島入りしたが、当時はそれほど注目されていた選手ではなかった。プロ入り後も壁にぶつかり、1年目の6勝9敗、防御率4.40から、2年目は1勝4敗、防御率6.60と成績が下降。ストレートは確かに速かったが、あまりにも荒削りだった。
だが、不器用ながらも一歩ずつ前へ進み、経験を積む中で少しずつ安定感を身につけた。自慢はタフさ。4年目の2000年にリーグ最多の7完投で9勝(6敗、防御率4.31)を挙げると、翌01年には13完投で自身初の2ケタとなる12勝(8敗、防御率3.03)をマーク。以降、7年間で6度の2ケタ勝利を飾り、カープのエースとして熱投を続けた。
決してエリート街道を歩んできた訳ではない。座右の銘は『雪に耐えて梅花麗し』。「苦しまずに栄光なし」の考えを胸に、泥と汗にまみれながら自分自身と真摯に向き合ってきた。その姿勢は渡米後も変わらず、それまでのストレートとフォークで三振を奪う“剛”のスタイルから、生き残るためにツーシームを軸にボールを動かして打たせて取る“柔”へと変貌。ドジャースで4年間、ヤンキースで3年間、先発ローテーションとして計79勝(79敗、防御率3.45)をマーク。変化を恐れず、常に前に進んできた証だった。