興味深いのは、こうした「昭和ノスタルジー」の消費者に、「平成生まれの若者」も含まれることです。その最大の理由として、「社会の発展が望めず、青少年も未来に希望がもてないこと」が挙げられます。これに加え、「DVDやネットによって、過去のコンテンツに簡単にアクセスが可能になったこと」も影響しているようです(注3)。
1995年以後の社会に生まれた「再生」志向は、村上春樹の歩みにも表れています。1980年代の彼は、「かけがえのないものが失われる話」の書き手でした(1983年の『羊をめぐる冒険』や1987年の『ノルウェイの森』がその代表例)。初期の村上春樹は、「喪失の予感」に訴えて人気を得たのです。彼の場合、転機は1996年の『ねじまき鳥クロニクル』でした。この作品以降すべての長編が、「失ったものを取りもどす話」になっています。
『あまちゃん』には、1980年代を回顧するシーンも多く、視聴者の「懐旧」の情に訴えかけます。冒頭で述べたとおり、「震災からの復興」も描かれています。「復興=再生」をテーマにしたドラマに「ノスタルジー」を織りまぜる――このやり方は大きくみると、『プロジェクトX』のころからの、文化の流れにそくしています。
『あまちゃん』で小泉今日子が演じた天野春子は、アイドルになろうとして故郷を離れ、挫折した過去を背負っています。おニャン子クラブがブレイクした影響で、1980年代なかばのアイドル界は「素人の時代」でした。その状況に、プロ意識にこだわる春子はなじめなかった、という設定です。
普通の女子高校生がクラブ活動としてアイドルをやる――それが、おニャン子クラブのうたい文句でした。その人気に、小泉今日子のスタッフは危機意識を抱いたようです。既存のアイドルも大胆なしかけをしなければ対抗できない――そういう判断の下(注4)、『なんてったってアイドル』が小泉今日子に与えられました(この曲のリリースは、おニャン子人気がピークだった1985年11月です)。
『なんてったってアイドル』は歓声をもってむかえられ、小泉今日子は「アイドル」を越えた「カリスマ」になりました。しかしこのことは、「アイドル歌手」という存在に致命的なダメージを与えました。おニャン子の登場によって、「アイドル歌手」は「誰でもなれるもの」とみなされはじめていました。そんなときに、「アイドル歌手」は虚構だと、トップアイドルだった小泉今日子自身がアピールしたのです。「アイドル歌手」への屈折ないあこがれを、大衆が抱けなくなったのは当然でした。
『なんてったってアイドル』の作詞を手がけたのは、秋元康。おニャン子クラブを世に送り出した当人です。「アイドル歌手」の命脈を絶った「主犯」が彼であることは間違いありません。