「田中さん、こんにちは」
午後1時過ぎ。東京都新宿区内のマンションで一人暮らしをしている田中博和さん(仮名・72歳)の部屋に、訪問介護事業所「Zアミーユ新宿」の男性介護スタッフが訪ねてきた。田中さんが昼食後の薬を飲んだのを確認すると、慣れた手つきでトイレの照明の電球を取り換えはじめる。同日の午前中に訪問したとき、田中さんから電球が切れたことを聞いており、新しいものを買ってきていたのだ。田中さんは、
「夜トイレに行くとき、どうしようと思っていたんだ。助かったよ」
と顔をほころばせた。
田中さんは、体調が急変するリスクが高い大動脈弁狭窄症を5年前から患っている。通院しながら自宅で過ごしてきたが、2015年3月、薬の飲み忘れと脱水で症状が悪化し入院。退院に際し同様の事態が再び起こることを心配した病院のソーシャルワーカーからは施設への入所を勧められた。
それでも自宅で暮らすことを望んだ田中さんは、地域包括支援センターに相談。そこで提案されたのが、施設介護事業などを手掛けるメッセージが同年2月に始めた「在宅老人ホーム」というサービスだった。東京都新宿区、世田谷区、杉並区にある同社の事業所で提供している。
在宅老人ホームは、12年に介護保険法に基づくサービスとして新設された「定期巡回・随時対応型訪問介護看護」に、介護保険では対応できない生活支援と食事の宅配をセットにしたもの。同社東京本部長の関野幸吉さんはこう話す。
「介護保険では要介護度に応じておむつ替えや入浴介助といったサービスが受けられます。しかし自宅で生活していくには食事はもちろん、ゴミ出しや電球交換、庭の草むしりなども必要になります。身体の介護だけでは自宅での生活を支えきれないんですね。在宅老人ホームは、身体の介護だけでなく、介護サービスやヘルパーでは行き届かない日常生活のこまかな支援や食事も丸ごと、24時間365日対応で請け負いますというシステムなんです」
要介護3の田中さんの場合、1日3回の服薬介助と口腔ケア、週に1度の入浴介助、月2回の訪問看護師による病状管理を介護保険サービスとして受けており、居室の掃除とゴミ出しなどが発生するたびに随時対応している。1回の訪問は10~30分、1日4、5回。それとは別に業者から3食分の低塩分食が届けられる。
また、利用者には事業所にダイレクトにつながる見守り携帯(緊急通報装置)が渡されていて、ボタンを押せば介護スタッフが駆けつけるしくみになっている。
都心部で交通量が多く、駐車場も確保できないため、移動は電動自転車のみ。対象範囲を事業所から約1キロ圏内にしぼっているので、最長でも15分以内で利用者のもとに到着することができる。
関野さんは「在宅老人ホーム」と名付けた理由をこう説明する。
「施設ではスタッフのいる部屋から入居者の居室に移動してお世話をしますよね。在宅老人ホームは同じサービスを、事業所と自宅でおこないます。つまり『道路』が施設の廊下で、『自宅』は施設の居室のようなもの。移動の距離と時間が長くなっただけというイメージなんです」
毎月の利用料は、要介護度に応じた介護保険サービスの自己負担(1割)に、定額2万円の生活支援サービス費用を合算した金額。食事の宅配を利用する場合は、内容や1日何食分注文するかによって、3万~4万1千円が加わる。
「施設のような住居費はかからないので、安く抑えることができています」(関野さん)
要介護3で3食分を頼んでいる田中さんの場合、毎月の自己負担は約8万5千円。年金で十分賄うことができているという。田中さんはこう話す。
「有料老人ホームのような高額な入居一時金がないので『だまされたら』とか、『あわなかったら』といった不安もなく、気軽に始めることができました。今は満足していますが、一人暮らしなので要介護度が進めば在宅は難しくなるかもしれません。そのとき、あらためて施設入居を考えればいいと思っています」
新宿区内の一戸建てで暮らす篠原さん(仮名)夫妻も同サービスを利用している。昨年末、夫の孝さん(同・73歳)は心臓病の発作で救急搬送され、命は取り留めたものの手足にまひが残り、食事や排せつなどほぼすべての活動に介護が必要な状態に。妻の雅子さん(同・72歳)は「高齢の自分一人では自宅で介護はできない」と判断し、退院後は施設に入居することになった。
しかし施設ではベッドに寝かせたままの状態が続き、それまで少し動かせていた手や足が動かせなくなってしまった。泣きそうな顔で「家に帰りたい」と繰り返す孝さん。そんな姿を見て雅子さんも追い詰められていたとき、たまたま自宅のポストに入れられた在宅老人ホームのチラシを見つけ、電話をかけたそうだ。
「1週間で準備が整い、家に戻りました。そのときのうれしそうな夫の顔を今でも覚えています」
と、雅子さん。それから1カ月半。孝さんは生きる気力を取り戻し、寝たきりから車椅子での生活ができるようになった。雅子さんは晴れ晴れとした顔でこう話す。
「お互い笑顔が増え、楽しく暮らせていることが何よりうれしい」
(取材・文/熊谷わこ)
※週刊朝日MOOK「自宅で看取るいいお医者さん」より抜粋