<小泉:(『風花』や『空中庭園』―2006年公開―の撮影中は)自分が散らかった部屋になっちゃってるみたいな感じ。その中に気になるものが一個ある、そういう感じ。一個片付ければ済むものじゃなくて、気になるものの為に全部を片付けなくちゃいけない。すごく片付けたいんだけど、片付けたら気持ち悪そう。散らかっていることは気になるんだけど、その罪悪感みたいなものが、ちょっと心地よくなってくるみたいな。
――罪悪感?
小泉:そう、その役が私の中の罪悪感みたいかも 。(中略)
――人によっては「役に入り込んだ」と言ったりするけど、そういうのともまた違う?
小泉:思い入れは勿論あるんですけど……なんか入り込むって気持ち良さそうでしょう? さっきも罪悪感っていう言い方をしたけど、爽快感はないから>(注4)
人は誰しも、他人には見せられない「醜い感情」を心に秘めています。嫉妬心、苛立ち、生理的な嫌悪……それらは、サイコ・スリラーのネタになるような「異常心理」ではありません。生きている限り抱えないわけにはいかず、その人の「核」と切り離させない――そんな、胸の底深く隠された「闇」の領域です。
小泉今日子が『風花』で到達したのは、演者自身の「闇」を芝居に託して表現する境地でした。「役が私の中の罪悪感みたい」という言葉は、そのことを示しています。
相米慎二が小泉今日子に感じた「持て余してる部分」とは、おそらくこの「闇」のことです。「異常心理」を演じる彼女を見たからこそ、そこに投入されていない「闇」に気づいたのかもしれません。
人間は、自分の「核」から目を背けたままで幸せになることは不可能です。時には「闇」を見すえる必要があります。とはいえ、そうした部分は存在を認めることだけでも楽ではありません。
このとき、映画や小説といったフィクションが役に立ちます。つくり手は、虚構の中におのれの「闇」を注ぎこむ。見る側は、作品に投入された「闇」を眺めてみずからのそれに思いをはせる――そういうキャッチボールが、すぐれたフィクションでは起こります。
小泉今日子はレモンを演じることで、「闇」を作品に結びつける一線級の表現者になりました。そして、そのことの意味を彼女がすぐ了解できたのは、同じ家にいる「永瀬くん」を見ていたからでした。
※助川幸逸郎氏の連載「小泉今日子になる方法」をまとめた『小泉今日子はなぜいつも旬なのか』(朝日新書)が発売されました
注1 「特別対談 相米慎二×小泉今日子 「風花」」(「キネマ旬報 2001年2月下旬決算特別号」キネマ旬報社)
注2 「永瀬正敏ロング・インタビュー」(「アクターズ・ファイル永瀬正敏」キネマ旬報社 2014)
注3 注1に同じ
注4 「インタビュー2 女優論」(「Switch 2006年6月号」 スイッチ・パブリッシング)
助川 幸逸郎(すけがわ・こういちろう)
1967年生まれ。著述家・日本文学研究者。横浜市立大学・東海大学などで非常勤講師。文学、映画、ファッションといった多様なコンテンツを、斬新な切り口で相互に関わらせ、前例のないタイプの著述・講演活動を展開している。主な著書に『文学理論の冒険』(東海大学出版会)、『光源氏になってはいけない』『謎の村上春樹』(以上、プレジデント社)など