元新幹線運転士の大石和太郎さん(81、左)と関亀夫さん(81)。2人とも、当時の青の制服と制帽を大事に持っている。/鉄道博物館(さいたま市)に展示された「0系」の前(撮影/写真部・工藤隆太郎)
元新幹線運転士の大石和太郎さん(81、左)と関亀夫さん(81)。2人とも、当時の青の制服と制帽を大事に持っている。/鉄道博物館(さいたま市)に展示された「0系」の前(撮影/写真部・工藤隆太郎)
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 50年前の10月1日。旧国鉄職員の大石和太郎さん(81)と関亀夫さん(81)は、新大阪発上り一番列車「ひかり2号」の運転士という大役を任された。あの日のことを、2人は今も鮮明に覚えている。

大石:起きたのが午前4時半。前日から大阪府摂津市にある国鉄大阪運転所(鳥飼基地)に泊まっていたんですが、朝ご飯を食べる間もなく制服に着替え、午前5時30分には新大阪駅に着きました。

関:まだ暗かったけど、ホームには人がいっぱいいましたね。午前5時45分くらいから出発式が始まり、地元の中学生の女の子たちが花束を渡してくれたんです。だけど、なぜか菊の花。色は僕は紫で、大石さんのは白でした。

――当時の新幹線は、2人交代で運転していた。まず大石さんが、新大阪から運転席に座った。次いで関さんが、浜松駅を過ぎて天竜川の鉄橋の上を通過するあたりでバントタッチ。

関:しばらくは定時運転で走ってました。だけど、停電か何かで1回止まったら到着が遅れちゃうから、時間を稼いでおこうと思い、少しスピードを出したんです。隣にいる大石さんが「ちょっと速いんじゃないですか」と言うので、私が「うん、承知」って。こんな会話もしましたね。

――ところが、新横浜駅を通過して、関さんは所定より5分早く走っていることに気づいた。

関:そこで、田町付近で40キロ近くまでスピードを落とし「時間稼ぎ」をしたんです。隣を走る山の手線に抜かれてしまって、「夢の超特急が在来線に負けちゃって、まずいな」って、大石さんと2人で顔を見合わせました。

――東京駅の到着予定時刻は午前10時。しかし、試運転では故障とトラブル続きだったため、国鉄の幹部たちは大幅な到着の遅れを予想していた。

関:みんなが遅れると思っていたから、10時にぴったり着いてやろうっていう思いはありました。

大石:そう。ドンピシャリで着いて、ざまみろっていうか、プロとしての意地みたいなものがありましたね。

――かくして、「ひかり2号」は10時ちょうどに、東京駅に到着する。

大石:夢の超特急で時速200キロを実現して、東京駅に定時に入ることができた。これはもう、うれしかったですね。

関:走っていると新幹線の跨線橋の上から、日の丸の旗を振っているのが見えるんです。みんなが祝ってくれていた。開業できてよかったなって、そのときには達成感がありましたね。食事ですか? 落ち着いてから、ようやくお祝いの赤飯弁当を食べました。