対談では「常にネタがない状態ですからね」とも。いつも笑いに貪欲だった(C)朝日新聞社
この記事の写真をすべて見る

「あとから聞くと、もう一人候補がいたらしいですけどね」

【忘れない…笑顔のドリフターズ、4人の集合写真はこちら】

 新型コロナウイルスに感染し、3月29日に亡くなったコメディアンの志村けんさん(享年70歳)。約20年前の2001年6月、作家・林真理子さんとの「週刊朝日」誌上の対談連載にゲストとして登場した際には、“コントの神様”というイメージから離れた、素顔が垣間見えるエピソードを語ってくれた(以下敬称略)。

 まず、ザ・ドリフターズ加入した際の裏話を明かした冒頭の言葉。1974年に荒井注が脱退し、17歳から付き人をしていた志村が正式メンバーに昇格した。が、そのとき実は、別の“候補”がいたのだという。

「付き人3年やって、やめて、独立して2人でコンビ組んでコントやってたんです。そこそこウケてたんですけど、相棒が逃げちゃって、新しい相棒とやってるときに『やってみないか』と話があったんですよ。(中略)志村のほうが若くていいだろうということになったらしいです(笑)」

 その“候補”が誰だったのかは、加藤茶が18年のテレビ番組でジャズミュージシャンの豊岡豊(12年没)だったと明かしている。豊岡は、いかりや長介が推して最有力候補だったが、加藤がそれに「待った」をかけ、志村を推した結果、昇格が決まったのだとか。

 プライベートでは“芸能界最後の独身大物”と呼ばれ、芸能人から一般女性まで数々の交際が報じられた志村だが、生涯独身を貫いた。51歳だった対談当時、結婚についてマリコさんから聞かれると、こう答えた。

「『最後の独身大物』って、うれしいような、つまんないような(笑)」

「ずっと一緒にいるのが窮屈でね。けっこう気ィ遣いなんですよ。相手のことを見ちゃったりするから。そう考える自分がイヤなんですね。面倒で」

「(もし結婚するなら)はやりのデキちゃった結婚じゃないですか。式とか挙げないですよ。50過ぎて結婚式やったら、ただの見せ物ですから」

次のページ 「昨日はクラブ3軒ハシゴ」。奔放な私生活も語っていた