この時代は他にも、坂本龍一やEP-4も積極的にカセットブックでリリース。音楽リスニング・ツールがちょうど、カセットやレコード、そしてしばらくして一般化するCDが入れ替わる移行期にあったことも、井上の制作欲求を刺激したのかもしれない。彼は86年にいちはやくCDブックという形態で『TOKYO INSTALLATION』をリリースしている。
しかし今回、紙ジャケットCDとして再発売された『カルサヴィーナ』は、その音楽性自体が驚くほど“攻めた”内容になっている。テーマは20世紀を代表する伝説的バレエダンサーのニジンスキー。80年にはハーバート・ロス監督によって映画化(『ニジンスキー』)されていたし、近年ではフィギュア・スケート男子のプルシェンコ選手が、その母国の英雄の振り付けを採り入れたプログラムを滑っていることで知っている人も多いだろう。
井上はしかしながら、そんなロシアのバレエダンサーからインスピレーションを得つつも、固定的なイメージに縛られず、クラシック、フュージョン、エスノ、ファンク、ミニマル、と様々なアングルから音楽性を交配させた。そして、高水健司 、今剛、山木秀夫ら腕利きのミュージシャンたちによる生演奏と、日進月歩で開発が進んでいた電子楽器と機材をクロスオーバーさせて完成させたのだ。それは先鋭的という言葉ではとうてい語れるものではなく、今もってしてもハイブリッドだ。
肉感的なのに、奇妙に制御されていて、エレクトリック。当時それを可能にしたのは、最先端の機材を取り入れただけではなく、長時間に及ぶレコーディングを丁寧に敢行したからではないかと思う。今でこそコンピュータ上で、データを操作しながらいくつもの要素をミックスさせることはたやすい。だが、プレイヤーたちの演奏とデジタル処理とを独自の感性でミックスさせ、全く新しいサウンドへと昇華させるのは至難の技だったはず。ニュー・ウェイヴの時代にアフロビートに踏み込んだアメリカのトーキング・ヘッズや、テクノとファンクを合流させた日本のYMOらがやってきたことに比肩し得る挑戦が、この作品にはあると言っていい。
今回の再発売にあたり、オリジナルのカセットテープに最新デジタル・リマスタリングを施し、新たなマスターを作成している。ブックレットには井上鑑本人と当時エンジニアだった藤田厚生の回想録が新たに加わり、オリジナルのカセットブックにあった井上鑑と佐野元春の対談などは、特設サイトで読めるようになっている(リンク詳細はCDに封入されたブックレットに記載)。
今回のリイシューに際し、井上自身は次のように綴っている。「今回のCD版リイシューで『カルサヴィーナ』には新たな角度の光が当たることになる。その織りなす影は今という時代感覚とシンクロして、36年前のエネルギーを翻訳、もしくは増幅して伝えてくれるだろう。中には原語を体験したいと思って、ほぼ絶滅状態のカセットテープ版を探し始める強者も現れるかもしれない。作者としては両方を聴き比べてもらえたら最高なのだが、高望みというものだろう」
歴史的な音楽財産は決して古いものではない。今現在のシーンの映し鏡であり、未来を予見するヒントにもなる。そんなことを痛感させられる素晴らしいリイシュー作品だ。(文/岡村詩野)
※AERAオンライン限定記事