愛媛大学四国遍路・世界の巡礼研究センター長の胡(えべす)光さん(54)はそう語る。いまの日本ではほぼ感染する人はいないハンセン病(らい病)に特効薬がなかった時代、集落内では生きられず、治癒を願いながら「職業遍路」として四国を巡り続けていた人たちもいた。太平洋戦争や東日本大震災の後に、故人をしのんで遍路をした人たちも少なからずいたという。

 胡さんはさらに言う。

「コロナ禍が落ちつけば、遍路をする人は増えるのではないでしょうか。日本の再生を願って遍路をするのは意にかなっています」

 愛媛大による札所での調査では、遍路をする理由について、親族の供養、自分探し、治癒など様々な目的が語られている。そこには自分を「再生」させようという共通の認識がみられるという。

『四国遍路』(中公新書)や『四国遍路の近現代』(創元社)の著書がある三重大学教授(地理学)の森正人さん(44)は、遍路は「伝統的な宗教」あるいは「既成宗教」の営みと見られがちだが、宗教的な教義は持っていない、と指摘する。礼拝の仕方、巡拝の仕方などもかつては規定されていなかったといい、「何にでも結びつくことができる」という。

 近代では観光と積極的に結びついて愉楽や娯楽という意味を持ち、戦中はナショナリズムや国家政策と結びつき、衛生的な健康のためという意味も帯びた。

 1990年代からの「失われた30年」や新自由主義の時代には、「自分探し」や「癒やし」と結びついた。社会のニーズの中で、社会のある特性と結びつき、新しい意味を持つ。つまり四国遍路は常に「新しい」と指摘する。

 四国八十八ケ所霊場会の公認先達、奈良県大和郡山市在住の山下正樹さん(75)も、そんな遍路の“懐”の中に飛び込んだ一人。

 元銀行員で、現役時代は朝から晩まで働いて出世競争をした。45歳のある日、系列会社への出向を命じられた。敗北感を感じつつも、何か前向きになれるものを探していた。50歳のとき、尿管結石で1カ月入院。そのとき偶然、遍路の体験が書かれた本を手にした。子育てや家のローンが一段落して、57歳で早期退職。初めて歩き遍路の旅に出た。「人生を切り替えるため」だった。

 四国にはお遍路さんへの「お接待」という文化がある。水や茶を差し入れたり、ミカンを手に持たせたり。そんな優しさに心打たれ、山下さんは遍路道を13回も歩いて巡った。今では88歳までは歩き遍路をするのが目標になった。

 逆打ちはこれまで4回した。順打ちの場合は、遍路道の木の枝に協力会が下げた札や、道順を示す看板、「道しるべ石」と呼ばれる石柱などが所々にあるが、逆打ちではそれらが背を向けていて、すぐ迷子になる。いきおい地元の人に話しかける機会が多くなる。

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