新型コロナウイルスの影響で、今年4月にも開催が決まっていた「女性のためのナチュラルビューティースタイル展」は中止になった。決断したのは最終的に吉川だったが、緊急事態宣言後、百貨店はのきなみ休業を決めた。国家的危機の時代、ファッションや美など、不要不急であるかのように。でも、本当に不要不急? あの美しい街に、私たちが戻れるのは、いつなのだろう。

 吉川は1959年、東京の裕福な家に生まれた。祖父が築いたボルトやナットの卸問屋は、高度成長期を背景に大成功を収め、倉庫を併設する大きな家で、忙しく働く大人に囲まれ育った。幼い頃から母の鏡台に並ぶ舶来の化粧品を毎日試しては、マスカラつけたら目が大きくなる、口紅つけたら顔が明るくなると、喜びを感じる女の子だった。とにかく化粧品が大好き。学生時代はレブロンのピンクのリップに青いシャドーをつけ、エスティローダーのナイトリペアが発売された時は「すごいの!」と友に薦めるコスメマニアでもあった。

 邪魔されず、ゆっくり化粧品の棚をのぞきたくて、ソニープラザでレブロンの販売アルバイトを始めたのは大学3年生のとき。吉川の売り上げがあまりに良く、「社員にならないか」と当時六本木にあった本社につれていかれたこともあった。

 その時に出会ったのがレイコ・B・リスターだ。1934年生まれ、レブロンの事業部長を経て、当時は新ブランドの日本法人のトップだった。上にいく女性がいない時代に、吉川が見たのは何百人もの部下を抱えた圧倒的に美しい40代のリーダーと、肌の綺麗な美容部員の集団だった。

「部下の女性たちが、みんな彼女を尊敬してるのが分かりました。ちゃらちゃらしてない、きちんと稼いで生きていこうとする女性たちでした」

 男女雇用機会均等法以前、そもそもお嬢様育ち、職業人として期待される未来もなく、明確な目標もなかった吉川が、職業意識を変えるきっかけとなる美容業界との出会いだった。結局レブロンには入らず、リクルートや設計事務所でのアシスタントを経て、30歳で結婚。すぐにカメラマンの夫と共に起業した。最初は撮影の会社だったが、幼い子を育てながら美容の専門学校に通い、美容の仕事への足場固めを始めた。マンションの一室でエステサロンを始めたのは33歳の時だった。
(文/北原みのり
                                                             
※記事の続きは「AERA 2020年6月22日」でご覧いただけます。

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北原みのり

北原みのり

北原みのり(きたはら・みのり)/1970年生まれ。女性のためのセクシュアルグッズショップ「ラブピースクラブ」、シスターフッド出版社「アジュマブックス」の代表

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