批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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西田亮介氏の新刊『コロナ危機の社会学』(朝日新聞出版)を読んだ。この数カ月の日本政府のコロナ対策を、各種資料をもとに整理し検証した時宜を得た出版だ。
著者の問題意識は「感染したのはウイルスか、不安か」という副題に明確に示されている。WHOが「インフォデミック」と名づけたように、SNS時代初めての世界的流行となったコロナ禍は、ウイルスの拡大のみならず情報の流通についても多くの課題を残した。日本ではとくに政府と国民の相互不信が強かった。西田氏によれば厚生労働省の動きは遅すぎてはいなかったし、補償や経済対策も金額的に類を見ない規模に膨れ上がっている。にもかかわらず国民の不満は解消されていない。
なかでも興味深かったのは一連の混乱が「耳を傾けすぎる政府」を生み出したという指摘である。安倍政権はそもそもネット世論に敏感だった。それゆえコロナ禍でもSNSを意識した広報を試みた。けれども4月半ばの星野源動画問題に象徴されるように、たいして効果を上げなかった。そこに5月の検察庁法改正案抗議のハッシュタグデモなど政治的スキャンダルが重なり、支持率低下に焦りを覚えた政府は、前例を無視して「大胆な決定」ばかり連発するようになった。結果として、国民は行政の無責任と不安定というべつのリスクに曝されることになったというのだ。
この分析はポストコロナについて貴重な見通しを与えてくれる。感染症は政治を場当たり的なものに変えた。しかしそれは新しい現象ではなく、コロナ以前の傾向の延長線上にあるものだった。西田氏の議論は日本に限定されているが、似た分析は他国にも適用できる。2010年代はSNSとポピュリズムの時代だった。それが2020年についに完成したということかもしれない。
「耳を傾けすぎる政府」をいかに制御するか。今後はそれが世界中で重要になる。そしてそれは新しい課題でもある。いままで野党とマスコミは国民の声に耳を傾けろとさえ言っていればよかった。けれどもこれからはその主張はリスクになりうるのである。
※AERA 2020年7月20日号