「さすがにこのときは出馬を固辞しましたが、橋下さんに『大阪都構想がダメになってもいいのか』と説得され、市長選に出ることを決めた。本人は『妻に相談してから発表すると橋下さんと約束していたのに、次の日には出馬報道が出ていた』と笑っていましたよ」(前出の維新の国会議員)
19年には、松井一郎大阪府知事(当時)と一緒に市長職を辞職し、吉村氏が知事選に、松井氏が市長選に出る「クロス選」に持ち込んで勝利。吉村氏は43歳の若さで知事に就任した。「このころから吉村さんの人気が高まってきた」(前出の地方議員)という。
ただ、吉村氏の政治家としてのキャリアは、橋下氏や松井氏から道筋をつけられた部分も大きい。維新の元議員は、こう話す。
「維新は政策集団だけど、体育会的な集まり。吉村さんは、市長時代はあまり目立たなかったので『松井知事兼市長』と言われていたぐらいでした。松井さんにとっては、自分の言うことは聞くし、見た目もよく、若い吉村さんは使い勝手がよかったんでしょう。吉村さんもそれにうまくのっかっていた。吉村さんに政治力はそれほどなかった」
それが、コロナ対策で政府や大臣に“物言う知事”として存在感を示し、頭角を現した。緊急事態宣言に伴う休業要請などの解除基準については、「数値に基づく出口戦略を国が示さないから大阪府で示す」と宣言し、コロナ対策を担当する西村康稔経済再生担当相と論戦になった。最後は吉村氏が潔く謝罪したが、世間には「闘うが、国とも冷静に交渉できる知事」と存在感を示した。(本誌・西岡千史、上田耕司/今西憲之)
※週刊朝日 2020年8月7日号より抜粋