人間としてのあり方や生き方を問いかけてきた作家・下重暁子氏の連載「ときめきは前ぶれもなく」。今回は、原爆の記録について。
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今年の八月六日、広島原爆の日のドキュメンタリー制作者の模索は続いた。なにしろ遠隔地に取材に行けない。目ざす人物とのコンタクトも思うにまかせない。そこで目をつけたのが、今まで公表されていない記録を片っぱしから調べること。そして完成したのがNHKスペシャル「証言と映像でつづる原爆投下・全記録」である。
原爆実験と投下に直接かかわったアメリカ軍のファレル准将の手記とそれを裏付ける映像など未公開資料である。
それを見つけたときの興奮が伝わってくるようだ。
砂漠での実験に立ち会った誰もが沈黙したという原爆の威力。準備は着々と進み、テニアン島からエノラ・ゲイが出撃するまでの期間、一方でドイツのポツダムではチャーチル、トルーマン、スターリンの会談が続いていた。日本に無条件降伏の勧告、ポツダム宣言が出されたのは七月二六日だ。
日本側は徹底抗戦を主張し、官僚トップの迫水久常は、原爆投下前にアメリカから警告があると考えていたと戦後に証言している。
そうした混乱の中、ポツダム宣言受諾は遅れ、運命の日が来てしまった。
あろうことか、三日後の八月九日、受諾を促すように今度は長崎を惨劇が襲い、同じ日には米英との和平仲介に一縷の望みをかけていたソ連も参戦。もはやこれまでと御前会議で天皇が受諾を決意。木戸幸一内大臣の記録に詳しい。
今まで私たちが知っている事実が、記録として突きつけられる衝撃は大きい。手記や映像などの重要性を知らされる。アメリカ国立公文書館をはじめ、各国の記録の充実ぶりに比べ、日本のそれが何と脆弱で残されたものが少ないか。
それは日本国の判断の甘さに通じている。なぜ原爆投下前に警告があると信じたのか。実際に投下されるとは思っていなかったふしがある。
その判断の甘さは今も引き継がれ、日本では大事な資料でさえも政府の都合で破棄される。コロナの専門家会議の議事録が残っていない事実にもつながってしまう。