作家の下重暁子さん
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写真はイメージです(Getty Images)
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 人間としてのあり方や生き方を問いかけてきた作家・下重暁子氏の連載「ときめきは前ぶれもなく」。今回は、大爆発が起こったベイルートについて。混乱と内戦の国レバノンの都市は、かつて中東のパリと呼ばれていた。

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 ベイルートへ通っていたのは中東戦争の後だから一九七四年頃、つれあいがテレビ局の中東特派員だったので、休みが取れたり、海外取材に出た帰りに寄っていた。

 まだ古き良き時代の面影のある「中東のパリ」と呼ばれる美しい街だった。海岸通りには往年の名画に登場した由緒あるホテルやしゃれたレストランが林立し、金銀細工や、フェニキア時代の繊細なガラスの古美術品が手に入った。

 地中海に面した温暖な気候で、午前中にはレバノン杉のある山岳地帯でスキーをし、午後は地中海で泳ぎを楽しめる観光地であった。

 レバシリといわれるように、レバノンとシリアは古くからの商業国家。なかでもベイルートは中東の商業の中心であり、情報の集中する街なので、銀行・商社の支店や、各新聞やテレビ局などマスコミの支局がひしめいていたし、JAL(日本航空)も東京から飛んでいた。

 NHK支局には、現ジャーナリストの木村太郎さんが赴任していた。

 支局といっても局長兼小使いで、一人で働かなければならなかったが、その環境の素晴らしさは、見渡せば地中海、眼下には発着する飛行機が見え、プール付きのアパートメントの広さといったら、キッチンからリビングまで運動会の毎日だった。

 つれあいも最初は「ミチコ」という日本食レストランのあるホテル「リビエラ」に滞在。ミチコさんは評論家石垣綾子さんの姪にあたる。もう一軒、日本人のお母さんのような女性、ヴァンさんのいる「日本レストラン」という店があって、特派員や商社マンたちの溜まり場になっていた。
 一方でパレスチナ人のキャンプがレバノン南部には多く、毎日のようにイスラエルから国境を越えて爆撃が行われた。

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