美大進学を諦めて、音楽の道に進みたいと母に伝えると、もちろん止められましたし、1週間口をきいてくれなかった。でも、母もやりたいことを仕事にして生きてきたので、結局、やりたいことをやらせてあげようと許してくれたようです。
■「楽しい」言える人に
21歳でCDデビューするも、ほぼ仕事がない状態が1年間続いた。「自分の選択は間違っていたのでは」という思いが頭をかすめ始めた矢先、記念のつもりで受けたミュージカルのオーディションに合格し、今度は演技の世界にのめり込んだ。
松下:そのミュージカルが、本当に楽しくて! もう僕はここから動かないぞ、と(笑)。すると、また「月9に主演して、映画も主演して……」と想像が一気に膨らんで(笑)。壮大な夢をまず描いちゃったので、それから八郎役に出合うまでの10年は長かったです。でも、描いた夢はどうしても捨てられなかった。
数え切れない出会いが、この10年間を支えてくれました。「向いてないんじゃないか」と思ったとき、もう一度実力をつけて、助けてくれた先輩たちと共演したいという思いが引き留めてくれました。名前を挙げるとすれば? う~ん……ご本人にはおこがましくて言えないですけど、吉田鋼太郎さんと光石研さんです。鋼太郎さんは右も左もわからない頃からいろいろ教えてくださって。光石さんは初めての連続ドラマでご一緒したんですが、僕、全然お芝居ができなくて、監督にいつも怒られていたんです。その時に「何やってもいいから。カバーするために、僕たちがいるから」っておっしゃっていただいたのがうれしくて。いつか恩返ししたいという思いが、ずっと心にあります。
表現する楽しさに突き動かされ、道を切り開いてきた。冒頭の舞台の稽古中、この先の未来を描く出来事があった。
松下:30年以上舞台に携わってきた(作・演出の)KERAさんが、稽古の休憩中に「は~っ楽しい! あと1カ月くらい稽古していたい」とおっしゃったんです。僕らとしては幕が開かないと困るんですけど(笑)、その言葉を聞いて「こういう人でありたいな」って思ったんです。いくつになっても、稽古の途中で「楽しいなあ」と言える自分でいなきゃな、と思っています。
(ライター・市岡ひかり)
※AERA 2020年10月26日号