笑顔で臨んだドバイでは銅メダルを獲得し、東京パラリンピックの出場権も得た。

 幼い頃から「スポーツで日本代表になる」と思い続けてきた。

 その夢を持つきっかけの一つが、5歳の頃にはじまった吃音(きつおん)症だ。自宅近くの川で四つ下の妹がおぼれ、母親に知らせに行ったが、動揺して言葉が出なかった。妹は助かったが、以来、言葉がスムーズに出なくなり、どんどん無口になっていった。いじめの対象にもされた。

 そんなとき、体育のバスケットボールでシュートを決めると、いじめっ子たちがほめてくれた。

「スポーツをしていると嫌なことを忘れられたし、僕にとって光り輝ける唯一の場所だった」

 高校時代にはハンドボールで国体3位の成績も残した。だが、筑波大学に進学が決まり、日本代表の夢に向かってさらに打ち込もうとしていた矢先、右足を切断した。そのときも、「片足を失っても運動できなくなったわけじゃない」とスポーツが希望になった。

 ハンドボールで磨いた跳躍力を生かして義足での走り高跳びに転向、2000年のシドニー・パラリンピックに日本人初の義足アスリートとして出場した。以来5大会連続入賞を果たし、現在では2メートルを跳べる世界唯一の現役義足アスリートだ。

 東京五輪・パラリンピックの延期が決まった後、3週間ほど全く練習をしなかった。

「目標を見失って、何を目指したらいいかわからなかった。その時期、足の切断面に傷ができたんです。これは心の乱れのサイン。ストレスで口内炎や吹き出物が出るのと同じです。体のサインを見逃したままだと、大けがにつながることもある」

 このサインを見逃さず無理せず休んだことで、いまは心も体もいい状態だ。初めてオフシーズンなしに来季に向けた練習をスタートさせた。

「我慢や無理をしない。メンタルを削らないことが一番です」

(編集部・中原一歩、深澤友紀)

AERA 2020年11月16日号より抜粋