84年6月16日の入間市市民会館では、ちょうど8時に停電が発生した。視聴者もびっくりしたに違いない。テレビ画面は真っ黒。ドリフの面々は機転をきかせ、懐中電灯を持ってきていかりやさんの顔を照らして驚いてみるなど、見事な場つなぎ。9分後に明かりがつくと、いかりやさんがせりふを言った。
「8時9分半だョ!」
生放送だからこそ続いたのではないかと語るのは、高木ブーさん。
「撮り直しができない危機感が、ミソなんじゃないかなあ。この1時間頑張れば終われるという気持ち。終わると皆『お疲れ様』って、すぐにいなくなっちゃった」
競うようにして会場を去っていく中で、高木さんは最後まで残った。
「誰か忘れ物をしてないか気になってね。すると長さんが、『ブー、行こう』と声をかけてくるんだよ。僕と長さんは同年代。10歳ほど下に仲本と加藤(茶)、その10歳ほど下が志村(けん)。長さんが一緒に飲み食いするのは、僕しかいない。よく焼き肉屋に行ったね。仕事の後だから、僕はレアでもいいから早く食べたい。長さんはゆっくりと焼いて食べる。僕が焼けていない肉を取ろうとしたら、長さんは『そうじゃない』とマジで怒りだしたねえ。話題は愚痴。長さんには、メンバーやスタッフの愚痴をこぼす相手が僕しかいなかったから」
荒井注さんが74年3月で脱退。代わりに坊や(見習い)をしていた志村さんが、正式にメンバー入りした。
坊やはそれなりの待遇しか受けられない。高木さんが語る。
「トンカツ屋で食べたり出前を取ったりするときは、メンバーの5人はカツライスを頼み、志村はライスだけ。ただし皆、2切れずつ残して志村にあげたんです」
待望のメンバー入りした喜びで張り切りすぎたか、志村さんは当初、空回りが目立った。仲本さんが説明してくれた。
「僕たちはバンドマンだから、リズムがあるんです。志村は若いからアップテンポのリズム。つまり8ビートのコントの中に16ビートが入ってきたわけで、なかなか合致しませんでした。それが変わったのが、『カラスの勝手でしょ』。あれはちょうどドリフのリズム。それから志村がうまく絡まってきました」
高木さんも続ける。
「生放送だから、台本どおりにやらないといけない。アドリブは許されなかった。時間がオーバーしちゃうんでね。でもアドリブをするのが志村。加藤と志村のコントは素晴らしいものでしたよ」