半世紀ほど前に出会った98歳と84歳。人生の妙味を知る老親友の瀬戸内寂聴さんと横尾忠則さんが、往復書簡でとっておきのナイショ話を披露しあう。
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■横尾忠則「猫的にいつもウトウト絵を描こう」
セトウチさん
去年に続いて、今年も猫特集が出ると「週刊朝日」の編集部から言って来ましたでしょう。昨年の猫に関する往復書簡のコピーが送られてきたのを読むと、すでに猫に関する僕の想(おも)いは全部吐露しつくしてしまったので新たに記述することもないので困ったなあと思っています。
セトウチさんは猫のことなどほとんど触れないで、最後の10行に死んだ猫と自分が死ぬと会えるのか知ら? とたったそれだけで、大半が猫と無関係の如何に自分が仕事が好きかという話で誌面は埋められています。まあ企画を無視して、小説の話ばかりで、この辺は猫の身勝手さそっくりで、自らが猫であると証明されているようで、まあ、こういうやり方もありか、と読者は納得させられると思います。
でも今回はあえて僕も猫離れ話をしたいと思いますが、僕はセトウチさんみたいに仕事がそんなに好きじゃないので、よほど気が向かないと絵は描きません。セトウチさんは「自分の嫌いな言葉や文章」は書かないとおっしゃっています。僕はその反対で、嫌悪するモチーフをわざわざ選んで描くこともあります。これは嫌なものに汚染されないために、描くという吐き出す行為を通して好き嫌いを失(な)くしてニュートラルにするためです。例えば土着的図像がそうです。土着は大嫌いです。三島さんは「君は土着を描くことで土着を拒否している」といいましたが、その通りです。嫌なものを描くことでその嫌なものを乗り越えてしまいたいのです。
また、あんまり仕事をしたくないのは、老齢になって、好奇心を持ったり、努力したり、意欲を持つと妙な我欲を向上させてしまうからです。できれば無為の状態でいることが一番有益だと思うからです。このへんは猫に似ているでしょう。何もしないことは逆にしないことをすることです。このことは死の準備練習でもあります。理想的な死の状態は何もしないことです。老齢期というのはその準備期間です。死の状態で一番いいのは老子的無為な生き方ではないでしょうか。