博士:ご高齢だったので、ブームには何もわからぬまま、しかし意思を持ってそれに乗っていく決断をされていたと思います。社長のふるまいとして、神輿に乗るのをよしとしていましたね。もちろん会社の売り上げもうなぎ上りになったと思いますし。
――銀座のビルの屋上には、一時期白い顔のその子さんの絵が描かれた巨大な看板がありました。鈴木その子さんのお茶の間への進出で、世の中の美しさの基準が、日焼けした肌から「美白」へと振り子が大きく動いた印象があります。
博士:(その子ブームの背景には)当時のガングロコギャルブームの反動は大きいと思います。その子先生は、それ以前にダイエット本の大ヒット(1980年出版の『やせたい人は食べなさい』がミリオンセラー)を経験しており、コスメや美容にも、まるでファッションのように「時節」や「旬」があることを体験的にわかっていましたね。
時代の寵児と呼ばれる人には、そういう大衆が群れるところに竿を落とす勘所があると思われます。そして自らが広告塔となり、世間のさらし者になることに躊躇しない、前にうって出るところも。
――なるほど。時代性があったとして、これからもそうしたブーム・現象はおきるのでしょうか。
博士:もちろん令和でも起こりうると思います。奇抜さ奇怪さ面妖さとともに女性を惹きつけるかわいさは、何度も類似したブームは再来すると思います。
Matt(元プロ野球選手桑田真澄さんの息子)のブレークも、鈴木その子ブームの再来のように思いました。奇妙、奇抜、面妖から、可愛いという肯定に変化し、社会がイジってもよいという流れ、コスメ、キャラクターが前提みたいなところも。ま、その子先生は、そこに会社と商売があり、ブームの規模はかなり違いましたが……。
――最後に、20年前のその子ブームを振り返り、心に浮かぶことを。
博士:わずか3年ばかりのことだったので、強い閃光を残して白色彗星のように駆け抜けた感が強いです。ブームの火付け役を担ったことは、その後の「猛獣使い」としてスキルを買われて芸能活動の自信になりました。
(まとめ/AERAdot.編集部 鎌田倫子)
>>本編はこちら:彗星のごとく現れ駆け抜けた「美白の女王・鈴木その子」とは何だったのか【没後20年】
※『お笑い 男の星座2 私情最強編』(浅草キッド著、文春文庫)、週刊朝日1999年9月17日号「ナンシー関の小耳にはさもう」を参考にしています。