左から松田聖子、田代まさし、日高のり子。写真はいずれも1980年代。(C)朝日新聞社
左から松田聖子、田代まさし、日高のり子。写真はいずれも1980年代。(C)朝日新聞社
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1986年当時の河合奈保子(C)朝日新聞社
1986年当時の河合奈保子(C)朝日新聞社

 2020年が終わる。当たり前だが、40年前は1980年で、その年にデビューした人は今年が40周年だ。

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 じつは歌謡界において、80年は節目の年。大物アイドルが次々とデビューした。松田聖子に田原俊彦近藤真彦、河合奈保子、柏原芳恵(デビュー時はよしえ)、三原じゅん子(デビュー時は順子)といった面々だ。

 また、田原のデビュー曲「哀愁でいと」のB面は田原、近藤、野村義男による「君に贈る言葉」。たのきんトリオが顔をそろえている。そして、聖子、奈保子、じゅん子による「MMKトリオ」を結成させようという動きもあった。この流れは、70年代における新御三家・中3トリオの構図を予感させたものだ。

 現実はその通りにはならなかったものの、この豊作は70年代をも超えるアイドルブームをもたらした。特に聖子、田原、近藤は数年間にわたって、オリコンの1位をとり続けていく。なかでも最も派手なデビューを飾ったのが、近藤だ。そこには、今年亡くなった希代のヒットメーカー・筒美京平の存在があった。

 のちに、筒美はこう振り返っている。

「もうトシちゃんは売れてたわけだし、売れるのがわかってるタレントだったからね。すごくプレッシャーがあった。(略)とにかく売れなくちゃ困るっていうから、売れるようなメロディーしか入ってないんじゃないかな」(「筒美京平ヒットストーリー」榊ひろと)

 じつは当時、近藤には田原の1.5倍のファンレターが来ていたという。そして、近藤のデビュー曲「スニーカーぶる~す」は「哀愁でいと」の約1.5倍を売り上げ、ミリオンセラーとなった。

 田原を上回る近藤の成功は、ジャニーズ事務所にとっても大きく、ここから帝国化が始まる。というのも、70年代後半、この事務所は郷ひろみの移籍やフォーリーブスの解散により斜陽化しつつあったからだ。

 筒美はその後、田原も手がけたし、少年隊のデビュー曲も書いた。また「スニーカーぶる~す」を編曲した馬飼野康二は、筒美の役割を継承するように、男闘呼組やSMAP、嵐、NEWS、Sexy Zoneといった10組近いグループのデビュー曲を作曲。ジャニーズで歌い継がれる「勇気100%」(オリジナルは光GENJI)も彼の作曲だ。

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柏原芳恵は夫の介護の日々