旧仙台藩領はほぼいまの宮城県にあたる。作家・司馬遼太郎も『街道をゆく 仙台・石巻』に〈この地の近世の原形は、伊達政宗がつくったとしかおもえない。それほど政宗の存在が大きく、その死後、遺臣たちが祖業を完成した〉とつづっており、その「祖業」はいまも生きている。
伊達家18代目の当主の伊達泰宗さん(54)は旧大名家が集まる会に出席する機会が多い。徳川家をはじめとして、前田家、上杉家、島津家と戦国のビッグネームが集まるなか、伊達家の“指定席”は徳川家の隣となっている。
「うちは外様なので本当は近くに座る立場にありませんが、『伊達家は別格ですから、おそばにどうぞ』とおっしゃっていただいています。幕末のとき、会津を助けて奥羽越列藩同盟の盟主になったこともありますが、『関ケ原ではお味方いただいた』ということが大きいようです」
江戸城を造るとき、政宗は家康に相談されたという。
「絵図面を見せられ、『おまえならどこから攻めるか』と家康に聞かれた政宗公は即座に、いまの江戸城の東北側に位置するお茶の水を指さし、『私ならここに大砲を据え付けて撃ち込みます』と答えたそうです。家康はそうかと聞き流しましたが、内心肝を冷やしたことでしょうね。その後の幕府は、外堀の工事を進めて防御を固め、仙台藩に普請させています」
このエピソードは、泰宗さんの著書『伊達家の秘話』で紹介され、「現在の水道橋(東京都千代田区)から御茶の水にかけて両岸絶壁がそそり立つような堀の名を、仙台藩が普請したことから『仙台堀』と称したという」と、書かれている。
※週刊朝日 2013年3月22日号