元朝日新聞記者でアフロヘア-がトレードマークの稲垣えみ子さんが「AERA」で連載する「アフロ画報」をお届けします。50歳を過ぎ、思い切って早期退職。新たな生活へと飛び出した日々に起こる出来事から、人とのふれあい、思い出などをつづります。
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前回、家売却にあたり大切にしていたものを友人に引き取って頂いた爽やか体験を書いたところ、高齢の方々から「私も思い切って、使わない物は人にあげようと思う」と反応を頂いた。その代表が我が父である。父はとにかくモノを溜め込む。モノがない時代に育ったことが大きいのだろう。誰であれ身についた価値観を変えるのは容易ではない。その父がその心境に至っただけで、誠にあのコラムを書いてよかったと思う。
ただ現実は複雑だ。いざ実行に移そうとすると壁にぶち当たること確実なので、私が体験して思い知ったことを少し書いておきたい。
実際にやってみてわかったのは「人様に差し上げる」ことの大変さである。不要なものを処分する感覚でいると、大事な人にゴミを押し付けることになり、長年の友情もむしろ壊れる。となれば、愛用のもの、手をかけたもの、つまりは大切なものを断腸の思いで差し上げるという1択しかない。惜しくない物ではなく、惜しくてたまらない物を差し上げる。それでも「いらなかったら遠慮なく断ってね」と念押しが必要だ。今やモノを手に入れるより手放す方が数百倍も難しく、努力も工夫も愛も必須なのだ。
そのような目で家の中を見直してみると、自分も使う予定がなく、さりとて人様にも差し上げられない、つまりは「誰からも必要とされない可哀想な物たち」に、自分がいかに囲まれて生きているかを実感することになる。そんな事態を招いたのは紛れもない自分だ。使いもしないものを、一時の欲に任せて安易に連れ帰りほったらかしにした自分と向き合う時である。
そこまで来たら、あとは歯を食いしばってその不用品を処分することだ。自分のしでかしたことには自分で始末をつける。やってみれば不思議なエネルギーが湧いてくるよ。やり終えた時、人生に本当に必要な物は驚くほど少ないことに気づかずにはいられないであろう。そうなれば、あれもこれも足りないと不安に怯える老後から少し解放されるのではなかろうか。
稲垣えみ子(いながき・えみこ)/1965年生まれ。元朝日新聞記者。超節電生活。近著2冊『アフロえみ子の四季の食卓』(マガジンハウス)、『人生はどこでもドア リヨンの14日間』(東洋経済新報社)を刊行
※AERA 2021年3月15日号