作家の下重暁子さん
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写真はイメージです(Getty Images)
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 人間としてのあり方や生き方を問いかけてきた作家・下重暁子氏の連載「ときめきは前ぶれもなく」。今回は、「望まない孤独や孤立」という言葉について。

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 最近、テレビで不思議な言葉を何回か聞いた。

「望まない孤独や孤立……」という言葉である。

 菅総理の口からも出た。

 わざわざ望まないとつけるには意味があるのだろう。普通の孤独や孤立とは違うとする理由は、いったい何だろう。

 自分で好んで孤独や孤立を選ぶ生き方とは違う。災害や事故などやむを得ぬ理由で一人になってしまったり、家族と離れたりで、一人暮らしを余儀なくされている人々……。

 そこに国が手を差しのべるというのは一見いいことのように思えるが、その奥には家族第一主義が見え隠れする。イギリスでも孤独担当相を置いたというから、孤独はいまや国際的問題だ。

 望む、望まないにかかわらず、おひとりさまは増えている。私はそれが特別のこととは思わない。人は生まれてきた時も、死ぬ時も一人である。
 人と人とがつき合うことの息苦しさ、窮屈さ。

 おひとりさまの自由を知ってしまうと、何物にも替えられない。誰にもこの権利を渡すものかと思ってしまう。

 しかし、日本では家族という小さな国家を単位にした方が管理しやすいので、個であることを極力排除しようとする傾向がある。憲法第13条は、個人の尊厳に触れ、個人の権利を最大限に尊重することを定めているが、自民党の憲法改正論議の中では、この条文の「個人」を「人」に変えようという案がすでに浮上している。個人と人とは違うのだ。

 特にコロナ禍の今は、人と人の間が疎遠になって、いやおうなく、自分一人という「孤」と面と向かわざるを得ない。少しくらい淋しくとも、このことこそが大切だ。

 自分という一人の人間に立ち戻り、自分の中に深く降りていく──それこそが人間を知る機会なのではないかと思う。コロナ禍をどう過ごしたかで人生は大きく分かれてしまう。

 勇気を持って自分をよく知ることに賭けてみよう。「望まない孤独や孤立」という差しのべられた手にすがる前に、せっかくのチャンスを、孤独や孤立で過ごしてみるのも悪くない。

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