半世紀ほど前に出会った98歳と84歳。人生の妙味を知る老親友の瀬戸内寂聴さんと横尾忠則さんが、往復書簡でとっておきのナイショ話を披露しあう。
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■横尾忠則「生と死が混濁した感覚は遊戯的創造の核です」
セトウチさん
朝、目覚めると同時にまるで天気予報のようにコロナのニュースをテレビが報じています。この間、大阪のコロナ感染者が666人と報道されました。この666という数字が画面に描かれた時、僕の背筋に冷たいものが走りました。
セトウチさんはご存知でしょうか。この666というのは悪魔の数字だということを。悪魔主義的な人間と言っても日本人にはピンとこないでしょうが、西洋では反キリストを指す数字として、ヨハネ黙示録には世界の終りが近くなると神が野獣と呼んだ人物が登場して、世界を支配するということが書かれています。
そんな恐しい666という数字がテレビの画面に表れた時、僕は本当に背筋が凍(い)てつくほど驚きました。もし西洋人がこの数字を見たらどんなに驚いたか知れません。仏教徒のセトウチさんには666なんて別にどーってことないかも知れませんね。世界の終りは弥勒(ミロク)の出現で救われると仏教では語られています。セトウチさんはこの前、僕の言った終末時計よりも、自分の終末生命の音の方が身近に聴こえるとおっしゃっていました。
われわれの年齢になると世界の終りも自分の終りもさほど変らないかも知れませんね。僕は20代の頃から終末意識が強く働いて、その意識で創作活動をやってきたように思います。1999年のノストラダムスは回避されましたが、物造りの人間にはこの終末意識がエネルギーになるという変な業のようなものに背中を押されて仕事をしてきたように思います。生きることは死ぬことだみたいな考え方にとらわれて今までやってきました。
死は一時僕の中では浪漫主義のような甘美な思想にとりつかれた時期もありました。その頃は幻想絵画や幻想文学に憧れ小さい世界に閉じ込められていました。そこから脱却したのはセザンヌのロマン主義が純粋絵画に転向した経緯に触れたことが大きかったと思います。だけど現実世界が全てだと考える唯物主義は僕の中で否定され、この現実と分離したもうひとつの現実への認識の拡大が僕の創造領域をうんと拡張してくれました。それは思想的なものではなく、幼少時代から今日まで僕の内部に棲みついている異界体験が巻き起こすイリュージョンです。ここにいながら、もうひとつの領域にいるというバイロケーション現象です。