人間としてのあり方や生き方を問いかけてきた作家・下重暁子氏の連載「ときめきは前ぶれもなく」。今回は、「春宵のいたずら」。
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一カ月ほど前の夕暮れのことである。外出から戻ってマンション三階にある我が家へ。この建物が出来た時からの住人だから、かれこれ三十数年になる。間違うはずはない。
入口は正面と裏側の二カ所あり、その日は裏の駐車場側から入った。そして、地階からエレベーターで三階へ。
降りて何気なく目の前のドアを開けようとしてわが目を疑った。鋼鉄製の扉に、泥で作った人形やら雪ダルマやらがベタベタと張ってある。
咄嗟に誰かのいたずらだと思った。オートロックなので誰でも入れるわけではないが……。
そして、表札を見て、再び驚いた。横長に金属製の名札がはめこまれているはずの場所に何もない。おまけに名札をくりぬいた跡が醜く残っている。
一瞬ぞっとした。何かの間違いかと思うが、ドアを開けてみようか。
ノブに触ると鍵はかかっておらず、開きそうだったので、あわてて手を離した。
落ち着け! 最初から考えてみよう。東側の駐車場入口から入ってエレベーターでまっすぐ三階へ。手順は正しい。だとすると、私の行動ではなく、建物自体に問題があるのではないか。
ふと思い出した。まだ入居間もない頃、つれあいが間違って我が家とそっくりのドアを開け、その時も偶然開いたらしいのだが、全く中の造りが違うことに気付いて、もう一度一階に戻り、外に出たと話していたことを。
私もエレベーターに再び乗って一階へ。するとロビーにかかったタペストリーが違うのだ。茶に白と紅のラセン状の線を描いた抽象画!
そうか見事に間違った。一つ手前の入口を入ってしまったのだ。表から入れば、すぐ気付いただろうが、裏側は全く同じ造りになっていて気付かなかった。外へ出て隣の表口から入ってみると、見慣れた夕焼けから闇に移行する様子を描いたタペストリーがロビーにある。