ローマ大会本番、東北大クルーはいつもの調子が出せなかった。予選は4位に終わった。三沢は敗因の一つについて、スタートの号令を意味するフランス語「エイト ブプレ パルテ」に反応できなかったことをあげている。フランス語でスタート号令の練習をしていたが、ダメだった。三沢は今でも悔しがる。

「スタートを得意としている東北大が遅れをとってしまったのは、いつまでたってもスタートの号令が聞こえず、戸惑いながら漕ぎ始めたからでしょう。国際試合の経験が皆無だったことが大きかったですね」

 東京大、東北大とともにオリンピック代表でしのぎを削っていたのが、慶應義塾大である。

 慶應義塾大の端艇部の学生は、1952年のヘルシンキ大会、1956年のメルボルン大会で日本代表に選ばれた。

 52年ヘルシンキ大会に出場した堀越保は群馬県立渋川高校から慶應義塾大経済学部に進んだ。

 ボート競技を始めたのは慶應義塾大に入ってからだが、そのきっかけがおもしろい。大学の必修科目として体育実技を登録しなければならないが、申し込みが遅くなってしまい、野球、テニス、サッカーなどの人気科目は定員締め切りのため履修できなかった。残りはボクシング、空手とボートだった。

「格闘技はいやで、ボートは夏でも水上だから涼しいと思って、それが端艇部との出会いです。授業で漕ぎ方を教えてくれたボート部員から、部に入らないかと誘われました。学生生活をただもんもんと過ごすよりもいいなと思って入部しました」

 その後、堀越は運動神経の良さと体力でメキメキ頭角を現し、舵手付きフォアで全日本選手権に出場した。2年生では彼だけだった。堀越は述懐する。

「学業成績が悪いと合宿所に大学から手紙がくる。1年間、試合に出してはだめという内容で、レギュラー選手でも大目に見てくれません。授業に出られないときは友だちのノートを写して試験に挑むのが精一杯で、遊ぶひまなどなかったですね。そのうち、メンバーの1人が家庭の事情で合宿所から引き揚げなければならず、代わりに私が出ることになりました」

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医学部の教授会で五輪出場が問題に