やがて朝鮮戦争が53年に休戦すると、神町キャンプが縮小され、正志さんは神町店を売却。不幸なことに、苦竹店は隣接する焼き肉店が起こした火事で焼失。国分町店のみの経営となった。
「米軍仕込みのハンバーガーですからね。親父はいつも『牛肉100%は譲れない』と言っていました。パティのほかにはタマネギがちょっと入っているだけ。お客さんは、最初のころは米兵。その後、大学で教えていたアメリカ人の先生方も来るようになりました。日本人の客足はさっぱりで、たまに入ってきたかと思えば『ハンドバッグください』と注文……(笑)。それくらい、ハンバーガーは浸透していなかったんです。商店街の人から『おにぎりも出したら』とアドバイスされたほどでした」
60年代になって転機が訪れた。近くに「東北劇場」という洋画専門の映画館が開業したのだ。そこで映画を見て、ほそやのサンドでハンバーガーと瓶詰めのコーラを味わう。米国文化が仙台に根付き始めた。
「マクドナルドが開業したときは、親父とお袋は銀座まで食べに行きました。それまで日本ではあまり見かけなかった食べ歩きをする若い人たちがたくさんいたので、これからハンバーガーは良くなるに違いないと確信したそうです。『味では負けない。値段では負けるけど』とも言ってましたね(笑)」
(本誌・菊地武顕)
※週刊朝日 2021年7月30日号より抜粋