ところが08年1月、再び牧田に難題が降りかかる。母の会社が、5億円の借金を抱え、資金繰りに行き詰まったのだ。貸し手の1行が世界的な金融不安を前に腰が引け「融資を引き揚げる」と言い出した。母が1人で切り盛りしているような会社だったので、誰かが手伝わないと倒産してしまう。

 母の会社の連帯保証人になっていた牧田は、1週間の有給休暇を取って金策に奔走した。その過程で、会社に承継者がいないことも、信用不安の一因になっていることを知った。すぐに片付く状況ではなかった。

「すみません。母親の会社を助けなきゃいけないんで」

 牧田は3年ほど勤めたサイボウズを辞め、母の会社に移った。

 会社の資産から個人所有のマンションまで売れるものは全部売った。それでも5億円には届かない。牧田は信用金庫を訪れ、本当のことを言った。

「返す気持ちはあるんです。でもどうやって返せばよいのかが分かりません」

 牧田の誠意が通じたのかもしれない。信金の担当者が言った。

「いくらなら返せますか」

 母親の会社の債務はサービサー(債権回収会社)に回されることもなく、大幅に減免された。

 およそ普通の若者が経験するはずのない修羅場を潜った牧田は、こう思うようになった。

お金のためだけに働くのはつらい。自分がやりたいことをやって生きていきたい。でも私は一体何がしたいのだろう)

 母も祖母も経営者だった。自分にはその血が流れている。起業という言葉が頭に浮かんだ。起業するならアメリカ。渡米して働いてみたいと思った。

 11年。東日本大震災の直後に、サイバーエージェントアメリカに中途入社した。会社から任されたのは当時、流行の兆しを見せていたソーシャルゲームの開発だった。日本ではグリーやDeNAが急成長していた。

■米国で意識が変わる

 ソーシャルゲームはユーザーの反応を見ながら、アイテムや課金の設定をこまめに変えていく。牧田は大学でかじったプログラミングを学び直し、「イラストレーター」というソフトを使ってアイテムを書き、デバッグ(欠陥の修正)して、イベントに投入するという一連の作業を1人でこなした。

 1年間、働いてみて、日本と米国では社会の成り立ちが全く違うことに気づいた。

 米国は給与所得者でも確定申告をする。源泉徴収で毎月、給料から天引きされる日本で働いているときは、自分がいくら税金を納めているかも知らなかった。米国で確定申告をした時、「こんなに納めているのか」と実感した。税金の重みが分かると、今度はその使われ方が気になる。今まで無関心だった政治ニュースを見るようになった。

(自立って、こういうことか)

 日本で給料をもらっていた頃の自分が、ある意味で思考停止になっていたことを知った。

(ジャーナリスト・大西康之)

※AERA 2021年8月16日-8月23日合併号から抜粋。文中敬称略

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