寂庵の応接室で、いつも寂聴さんが身を沈めて座っていた椅子のそばに腰かけながら、私は寂庵の中に寂聴さんを感じることができなかった。
もうここには寂聴さんはいない。それが正直な感想である。寂聴さんは引っ越しが好きだった。寂庵に落ち着くまでどれぐらい引っ越したか。まるで隣に引っ越すように、さりげなくあの世に引っ越していった。憧れていたこの上なく自由で愛に満ちた地に。
まなほさんが口を開く。
「この間、お墓がある岩手県の天台寺に行ってきました。井上光晴ご夫妻のお墓の隣が親しい編集者のお墓。そして寂聴さんのお墓。なんだかとても楽しそうで、よかったですねと言ってきました」
この世の愛憎を突きぬけて、寂聴さんは愛する人たちとともに、いまが一番自由で安らいでいるだろう。寂聴さんを迎えてさぞあの世も賑やかになったろう。
その思いを引き継ぐのは瀬尾まなほさん。寂聴さんはもういない。瀬尾まなほという個として、ひとり歩いていく。それを見守りたい。
下重暁子(しもじゅう・あきこ)/作家。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業後、NHKに入局。民放キャスターを経て、文筆活動に入る。この連載に加筆した『死は最後で最大のときめき』(朝日新書)が発売中
※週刊朝日 2022年12月2日号