TOKYO FMのラジオマン・延江浩さんが音楽とともに社会を語る、本誌連載「RADIO PA PA」。今回はピンク・フロイドの伝説復活について。
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「映像として記録として残っていたのは凄い。ほとんど遺跡から発掘したような貴重なものですよね」とギタリストのSUGIZOが呻いた(「箱根アフロディーテ」50周年記念イベント『追憶のピンク・フロイド オーディオライブ』8月6日)。
1971年8月6、7日の2日間、箱根芦ノ湖畔北斜面のゴルフ場跡地で開催された、愛と美の女神名“Aphrodite”を冠する日本初の野外ロックフェスの衝撃については、文学・音楽・放送業界の先輩たち(その多くが元ヒッピー)からこれまで何度聞いたか知れない。
「午後六時三五分。いよいよピンク・フロイドのステージが登場した。(略)乗風台には霧が立ちこめ、冷たい風が湖からあがってきた。(略)突然、グァーンというギターとオルガンのイントロダクション。そう、“アトム・ハート・マザー”でフロイドの日本における初めのショーの幕が開いた」(立川直樹『ピンク・フロイド』)。「墨絵のような山々を、ゆっくり霧が包みこんでいくのが肉眼でもわかる。フロイドのサウンドと大自然とが見事に調和した、その素晴らしさはライティングやその他、人工的な演出など及びもつかない」
ライブクルーと仲良くなった若者が撮っていた映像が偶然発掘され、16mmフィルムを一コマずつデジタル化、3年かけてレストア(修復)とリマスターで磨き上げた映像が発売されると、オリジナルの『原子心母』がオリコン15位だったのが50年後は13位に。
「フロイド側との交渉も一筋縄ではなく、日本発の企画が通るわけがないと心が折れそうになったことも」とソニーミュージックの白木哲也は語る。「リリースできたなんて見えない力が働いていたとしかいいようがありません」。ウッドストックフェス翌々年、世界のモンスターバンドを招聘した関係者、ぬかるみの中、ブルドーザーで機材を運んだ当時のローディーの奮闘と同様、ロック史を伝承するレコードマンの涙の結晶でもあった。