したがって、社会における問題を法律や規制だけで解決することに渋沢栄一は疑問を抱いていました。
「社会問題とか労働問題等のごときは、たんに法律の力ばかりをもって解決されるものではない。」
現在、所得格差が大きな社会問題になっています。ただ、栄一の時代の貧富の格差は現在と比べにならないほど顕著でした。また、今のように働き手が年金などを通じて会社の株主になれることもなく、資本家階級と労働者階級を分ける線がはっきりと引かれていました。そのような時代である1896年に、渋沢栄一は「工場法」の施行に反対を示しています。その理由は外国の法律の丸写しは、当時の日本社会に弊害もあり得ることの懸念でした。
「かの資本家と労働者の間は、従来家族的の関係をもって成立し来ったものであったが、 にわかに法を制定してこれのみをもって取締ろうとするようにしたのは、一応もっともなる思い立ちではあろうけれども、これが実施の結果、はたして当局の理想通りに行くであろうか。」
幼い女子の過労な労働を阻止すること等を目的としている法律でしたが、当時の日本社会の経済状況では、職を失うことで生活が更に困窮に陥る現状もあったのです。およそ20年後の1919年になると日本の経済社会の状況も向上し、栄一は労使関係の融和を目指す団体「調和会」を設立しています。
「資本家は王道をもって労働者に対し、労働者もまた王道をもって資本家に対し、その関係しつつある事業の利害得失はすなわち両者に共通なるゆえんを悟り、相互に同情をもって始終するの心掛ありてこそ、始めて真の調和を得らるるのである。」
勝ち負けという「か」に留まることなく、Win-Winが生じる「と」を常に目指していたのが渋沢栄一の思想の源です。栄一が描いていた新しい時代とは、みんなが豊かになる社会、今風にいえば、インクルーシブな社会です。
ただ、栄一が描いていたインクルージョンとは、みんなが同じになる「結果平等」ではありませんでした。