そもそも学生時代まで、自分が演劇の世界に入ることなどは、想像もしていなかった。
生まれ育ったのは、奈良県天理市。父が会社員、祖父母が柿を作る兼業農家で、周囲にアーティストらしき人間は誰もいない。一緒に遊び回る子どもも集落には少ない。祖父母を手伝い、畑作業にいそしむ母を見て、「生きることはなんて大変なんだろう」と感じながら、一人、本を読んでいるような子だった。
京都大学で美学美術史とフランス文学を専攻し、氷河期の就活戦線をくぐり抜けて、04年に製薬会社に総合職として入社。「偏差値競争の勝ち組はこれだ、という価値観が何の疑問もなく自分に染み付いていた」と、振り返る。
それが激しく揺らいだのは、東京で働き始めてから。朝起きて会社に行く。与えられた仕事をこなし、家に帰る。そのルーティンに生きる実感は薄く、大学までは気づかないでいた男女差別が、企業社会に根強く残ることにも傷付いた。
これがあと40年続くのか。そう思うと、とても耐えられなかった。入社2年目で転職を決意し、興味のある分野を考えた時に、かろうじて浮かんだのが「劇場」だった。
「とにかく今いる場所から逃れたい。そうしないと私は死ぬ、というぐらい追い詰められていた。好きだから応募する、という動機ではなかったんです。だから、次々と落ちましたね」
舞台作品を海外に売るエージェントやプログラム制作会社への応募を続ける中で、最終的に残ったのが、宝塚歌劇団の演出助手だった。不採用の体験から学んだのは、「学歴では通用しない。この人はヘン過ぎるから、会ってみたい。そう思われないとダメだ」。
歌劇団への応募では、クセの強い擬古文調で志望動機を書き、課題の小脚本は東銀座に通い詰めて、歌舞伎に類した和物を仕上げた。作戦は奏功し、06年に演出助手として採用決定。そこから7年間の下積みが始まった。
演出助手は、演出家の手足アタマとなって動き、稽古場での音出しからスケジュール管理、さらに徹夜で調べものと、あらゆる雑用をこなしながら、作劇を学んでいく。ドアストッパーを枕に寝落ちするほど体力勝負の現場だったが、それは苦ではなく、むしろ面白いことだった。嫌なこと、つらいこと、うれしいこと、すべてをひっくるめて、「何かを感じる」ことが、いちばん価値がある──。この時、上田は自分の生きる原理を確認したという。
宝塚歌劇団雪組の元トップスター、早霧(さぎり)せいなは、駆け出し時代からすでに有能だった上田を覚えている。
「お稽古場の雰囲気は演出助手の動きで左右されることがあります。上田さんは流れを的確に読み、必要なことを先取りして、その場にストレスを与えない。観察眼、センスが抜群でした」
(文中敬称略)
(文・清野由美)
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