以上見たように、天武は中小豪族や地方豪族の不平不満を吸収し、彼らの力だけに依存し内乱を勝利に導いたわけではない。そもそも、天武が兄天智による「構造改革」に対して不満を抱く豪族たちに同情的だったかと言えば、決してそうではなかったのだ。

 なぜならば、壬申の乱後に天武が行ったのは、天智による大化改新以来の「構造改革」の成果を引き継いだ、その総仕上げの変革だったからだ。

■カリスマ性による大リストラ

 7世紀半ば、クーデターによって誕生した孝徳政権は、中央・地方の豪族たちの世襲の仕事を否定し、代わりに彼らを「能力評価」システムにもとづき「官僚」に編成していく一大「構造改革」に着手した。だが、654年に孝徳天皇が没し、翌年即位した斉明天皇の時代に百済が滅亡(660年)、その後、百済救援戦争の最中に斉明が急逝し、白村江で大敗を喫するなど内外ともに多事多難であった。そのため「構造改革」は当初の勢いを失い、なお完成するに至っていなかった。

 壬申の乱に勝利し、晴れて天智の後継者となった天武は、かつてない規模の内乱を制し、実力で王位を手にしたというその「カリスマ性」を最大限に利用し、未完の「構造改革」の総仕上げに着手することになった。

 天武が在位中に一人の大臣も任命せずに独裁を行ったのは、大臣を出すような中央の大豪族を抑圧するためではなかった。それは、彼ら大豪族の処遇も含めた年来の「構造改革」を一気に仕上げるためにほかならなかったのだ。

 天武はまず手始めに、中央の中小豪族を対象に「能力評価」システムによって「官僚」たりうる人材の発掘に努め、彼らに臣に次ぐカバネである連を授けていった。氏族ではなく、あくまでも個人を対象に「官僚」候補者を選抜していったわけだ。だが、これはあくまで暫定的なもので、「官僚」となりうる人材の裾野を広げるという意味合いがあった。

 そして684年、天武は中央の大豪族や中小の豪族たちに対し、新たに制定したカバネを授与すると宣言した。これが「八色の姓」だ。従来のカバネは臣を最上位とし、連がそれに次ぐとされていたが、それ以外の直・造・首・史などのカバネには明らかな序列や上下関係がなかった。

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