政治学者、原武史放送大教授(c)朝日新聞社
政治学者、原武史放送大教授(c)朝日新聞社

 昭和天皇が皇太子(裕仁皇太子)だった大正時代から、結婚はスムーズにいかなくなりました。裕仁皇太子は久邇宮良子と婚約します。皇族や華族としか結婚できなかった点は嘉仁皇太子と共通しますが、決定的な違いは恋愛感情が芽生えたことです。ところが良子女王の家系に色覚異常の遺伝があるとわかり、山縣有朋ら政府の主要メンバーが反対して、久邇宮家に辞退を求めました。これが、1920年の宮中某重大事件です。

■万世一系の家系が傷つく

 山縣らは「天皇家という万世一系の家系が傷つく」と考え、反対したわけです。しかし、皇太子の意思は揺るがず、婚約は解消されませんでした。2014年に公開された『昭和天皇実録』にもこの経緯が書かれています。昭和天皇と久邇宮良子は婚約内定から結婚まで5年以上かかりましたが、結婚後の新婚旅行では日光よりも遠い福島県の猪苗代湖畔まで出かけ、2人だけの幸せな日々を過ごしています。

 昭和時代に明仁皇太子(現上皇)が正田美智子(現上皇后)と結婚したときも、決してスムーズではありませんでした。史上初めての皇太子と平民女性との結婚を、当時の皇后や(元)皇族女性らが猛反対した経緯があるからです。しかしこのときも、皇太子は正田美智子との間に、誰にも邪魔されずに長時間通話できる電話のホットラインをつくるなど、初志貫徹して一緒になりました。

 いずれも大正天皇とは対照的に、結婚までには紆余曲折あったが、結婚後は愛情によってより固く結ばれたように見えます。

■歴史をよく調べたのでは

 一方、昭和天皇の娘たちは、いずれも皇族や旧華族のような家柄を重視した結婚をしましたが、結婚して幸せになったかというと、必ずしもそうではなかった。たとえば、鷹司平通と結婚した三女の和子内親王は、平通が銀座の女性と心中して一大スキャンダルになり、その後自らも包丁を持った男に襲われて負傷しています。

 鷹司平通の死が投げかけた皇室内の波紋については、『昭和天皇実録』にも記述があります。これは憶測ですが、秋篠宮家にも『昭和天皇実録』は当然全巻そろっているでしょうし、眞子さんもこれまでの皇室の結婚というものをよく調べているのではないかと思います。

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批判的な世論の共通点とは