白い小さな点が針穴 大日本沿海図稿 南海(部分) 徳島大学附属図書館蔵
白い小さな点が針穴 大日本沿海図稿 南海(部分) 徳島大学附属図書館蔵

 納められた「大日本沿海輿地全図」は幕府から明治政府に引き継がれた。しかし、1873年、皇居が炎上し焼失。さらに伊能家に残され政府が借用していた副本も東京帝国大学の図書館に保管中に関東大震災で焼失してしまった。残念ながら本体は現存していない。

 ただ佐原伊能家には正図を完成させるために忠敬が描いた下図や測量器が数多く残され、見学に来る人も多かったという。洋さんの祖母である、孝(こう)さんは、訪れる見学者に学芸員のように丁寧に解説していたという。

「5代目に当たる祖母の生年1867年と忠敬の没年1818年の差はわずか49年で、祖母にとって忠敬はご先祖様のひとりというより、祖父に近い存在だったと思います」(同)

 祖母には歴史上の人物・伊能忠敬ではなくチュウケイおじいちゃんだったのだ。

「うちは地図屋だったので、下図や反故がたくさんありました。あまりに多いので、一部をお雛様を保管する際の包み紙にしていました。今は国宝になっている量程車(りょうていしゃ)に乗って遊んでいたら、すごく怒られたこともありました」(同)

 日本で初めて実測で作られた伊能図は、その後の日本にどんな影響を与えたのか。1828年、ドイツ人医師のシーボルトが伊能図の写しを国外に持ち出そうとして発覚、国外退去させられたシーボルト事件は有名である。シーボルトは伊能図の一部をすでにオランダに送っており、それを見たロシア海軍中佐のクルーゼンシュテルンは出来栄えに驚愕したという。

 それから30年余り後の1861年、当時世界最高水準の地図を作っていたイギリスの海軍が日本地図を作るべく幕府に許可を願い出た。幕府が伊能図を見せたところ、あまりの出来のよさにイギリス海軍は自分たちで測量をすることをやめ、伊能図を元に地図を作り直すことにした。

「伊能図は山や海が丁寧に彩色され、芸術的な美しさを持っていることも忘れてはなりません。夜間の天測を行った地点に星印が付いていることも独特です。実測できなかった箇所の『不測量』も他の地図に見られず、科学者としても矜持が如実です」(同)

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