量程車(国宝) 地上測量の器具 千葉県香取市 伊能忠敬記念館所蔵
量程車(国宝) 地上測量の器具 千葉県香取市 伊能忠敬記念館所蔵

「名主として村政に関わり、毎年のように起こった利根川の洪水による堤防の修復などで測量の知識を積んだと思われます。後年、大勢の人を指揮することにも役立ったでしょう」(同)

 こんなことがあった。佐原の村は不作が続き、厳しい経済状況であった。そこで村の祭りで中心となる山車をやめ、質素にしようと決めたのだが、その約束を破って一部の地主たちが山車を引き回し、騒ぎになった。その件がきっかけで忠敬は相手と絶交したのだ。

「伊能家に入った忠敬は商人として才能を持ち、人口5千人の小さな村で日本中を見据えた大きな商いをして家運をもり立てました。酒造業のほか、米、材木の売買、水運など幅広い仕事をして、隠居した時点の資産が3万両(およそ45億円)という記録が残されています」(同)

 こうして商人としての人生の前半は終了し、後半へ続いていく。

「子どものころからの夢をずっと諦めないでいたのです」(同)

 本格的に測量に携わるようになるのは、50歳での天文学者・高橋至時(よしとき)への弟子入りがスタートとなる。

 至時のもとで測量の勉強をしていた忠敬は、緯度の差と緯度の距離を測り緯度1度の長さを出せば地球の大きさがわかると考え、深川にある自宅から浅草の司天台(幕府天文方の観測所)までの距離を歩いて測り、その間の緯度を測定。計算結果を師匠の至時に伝えた。

 考え方はよいがこれでは誤差が大きい。もっと広い範囲の測量、例えば蝦夷までの距離を測って計算すればいいのでは、と提案された。

「チュウケイ先生は、その言葉を受けて行動を起こそうとしました」(同)

 こうして1800年に蝦夷地までの第1次測量が始まった。実績が幕府に認められ、翌年第2次から第10次まで、足かけ17年にわたり全国の測量をすることに。第4次までは私費を投じての測量であった。

 しかし、忠敬は地図の完成を見ることなく1818年にこの世を去った。日本全土の地図を作成する計画の中止を恐れ、弟子たちは死を秘した。そして死後3年の1821年に幕府に「大日本沿海輿地全図」が提出された。大図214枚、中図8枚、小図3枚という膨大なものだった。

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