TOKYO FMのラジオマン・延江浩さんが音楽とともに社会を語る、本誌連載「RADIO PA PA」。大学時代について。
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大学に入ったばかりの頃、キャンパスで渡されたフライヤーを手に多摩川べりのテニスコートを覗(のぞ)いた。地元井の頭公園やICU(国際基督教大)のコートで高校のクラスメイトとラリーに励んでいたので腕試しにちょうどいいと思ったからだ。
同好会ゆえ彼らの腕前は大したことはなかったが(だから入部はやめた)、他の女子大の部員もいてボールを追っていた。当時プロテニス界に君臨していたのはジミー・コナーズとビョルン・ボルグ。彼らはコナーズを真似(まね)てナイキのフォレストヒルズを履いてウィルソンのスティールラケットを振り回し、ボルグに少しでもあやかりたいとフィラのウェアを着こんだりしていた。
コートの駐車場には先輩たち(おそらく附属高からの)のセリカや117クーペが並び、車内にはアース・ウィンド&ファイアーやボズ・スキャッグスのカセットテープが散乱し(FMをエアチェックしたものと思われた)、『ポパイ』を読み、『サタデー・ナイト・フィーバー』や『スター・ウォーズ』を観た夜は六本木のディスコ「キサナドゥ」に繰り出していた。
それからちょっとして、そんな「先端」の学生の日常を田中康夫が『なんとなく、クリスタル』という小説に描いてデビュー、芥川賞候補にもなった(江藤淳が絶賛したのは後で知った)。
大学が日吉だったから、溜(た)まり場は自由が丘。僕はテニスの代わりに映画研究会に入った(スポーツの方は高校の仲間とヨットを再開)。映研のロケもこの街で。主演女優は作詞家からシンガーソングライターになった法学部の小室みつ子だった。
吉祥寺以外知らなかったから自由が丘が新鮮だった。路駐して入ったのがアンナミラーズ。パイ生地が厚く、生クリームがたっぷりのケーキの次にクラブハウスサンドを食べるとおなかいっぱいになったが、それでもコーヒーを何杯もおかわりした。それだけ時間があり余っていた。