元親が信長の命令に従うつもりだった以上、元親が事件の黒幕だったとする説は、この「石谷家文書」によって否定されてしまったことになる。四国政策の転換が本能寺の変に影響を及ぼした可能性は残るものの、元親の返書を待つことなく光秀が謀叛に及んだことから、直接の重要な要因であったと考えるのは、いささか難しいと言わざるをえない。
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【黒幕説/検証 4】羽柴秀吉
■信長の死で天下人の座を掴んだ事実! 希代の策士にかけられた疑惑
事件の最大の利益享受者が、最も疑わしい――。犯罪捜査の鉄則だが、本能寺の変でもっとも利益を得たのは秀吉である。高松城を水攻めの最中だった秀吉は、中国大返しと呼ばれる強行軍で畿内に取って返し、山崎の戦いで明智光秀に勝利。天下人への道をひた走ることになる。
秀吉黒幕説には、さまざまなバリエーションがあるが、共通するのは、秀吉は事前に光秀の謀叛を知っていたから毛利方と迅速に講和し、中国大返しも可能となったと解釈すること。さらに進み、秀吉は光秀と共謀していたとする説もある。秀吉は光秀をけしかけて信長を討たせ、その上で意気揚々と光秀を討ったことになる。さらには、秀吉が毛利方の安国寺恵瓊と手を組んでいたとする説もある。恵瓊が信長の失敗(死)を予見していたかのような発言をしたのがその理由だ。
さらに、織田信長が光秀に徳川家康を討つよう命じたが、信長に不満をもつ光秀は逆に家康と手を結び、信長を討ったとする説もある。秀吉もこの共謀に噛んでいたので、あっという間に光秀を討つことができたという解釈である。
いずれも直接の証拠はなく、状況証拠的な要素を積み上げてする「推理」であるが、事前の情報が一切漏れないという、神がかり的な前提が必要となり、蓋然性はけっして高くないと言わざるを得ない。
(文/安田清人)