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 本能寺の変の背後に、光秀を教唆した黒幕は存在したのか?「戦国最大のミステリー」として、古今の歴史家や市井の歴史ファンを悩ませてきたテーマといえよう。週刊朝日ムック『歴史道 Vol.13』では、状況証拠、動機、事件の結果得た利益等から「容疑者」を多角的に考察した。数回に分けて「黒幕」を検証する。今回は長宗我部元親と羽柴秀吉の黒幕説だ。

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【黒幕説/検証 3】長宗我部元親

■信長の四国政策転換により窮地に陥った元親の秘策が謀殺だった?

 近年、本能寺の変をめぐる「新説」で、もっとも注目を集めたのは「四国政策転換説」だろう。織田信長の四国政策の転換が、本能寺の変を引き起こしたとする考えである。長宗我部元親を黒幕と考える説は、この説と非常に密接な関係にある。

 もともと、本能寺の変に長宗我部元親が関与していたとする考えは、江戸時代の初期から存在した。17世紀前半に、長宗我部家の元家臣が記した『元親記』という軍記物が、その典拠である。そこには、次のようなストーリーが書かれていた。

 信長は長宗我部元親に朱印状を送り、四国を「切り取り次第」に支配することを認めていた。しかし、ある人が信長に元親の勢力があまりに強くなることを警戒するよう讒言した。そのため、信長は約束を反故にして、元親に対し伊予(愛媛県)と讃岐(香川県)を返上し、阿波(徳島県)の北半分を三好氏に与えるよう命じた。しかし元親は、そもそも四国は信長から与えられたのではなく、自分の力で切り取ったのだとして、この命令を拒否。長宗我部と織田家との取次をしていた明智光秀は、重臣・斎藤利三の兄石谷頼辰を使者として遣わしたが、元親は言うことを聞かない。そのため信長は息子の信孝軍に四国征討させることを決定する。斎藤利三は元親を救うために光秀を動かして6月2日の本能寺の変を起こさせた――。

 よくできた話で説得力もあるが、『元親記』は同時代の記録ではなく、後世に長宗我部家の歴史を正当化する目的で編まれたものであることから、信憑性は低いと考えられてきた。

 しかし近年、「石谷家文書」という一連の史料が再発見され、この『元親記』の内容と合致する文書が見つかった。これによって、「明智光秀が謀叛に及んだのは、信長の唐突な四国政策の転換によって取次としての面目を潰され、将来に絶望したことにある」との考えが注目されるようになった。

 長宗我部元親が黒幕だったとする説は、織田信孝を大将とする長宗我部討伐軍の派遣を前に、窮地に陥った元親が積極的に斎藤利三とその主君光秀に働きかけ、本能寺の変を起こさせたとする説である。「石谷家文書」に含まれる、上で紹介した文書のうち、天正十年五月二十一日付の斎藤利三宛ての文書を見ると、元親は『元親記』の記述とは異なり、信長の命令には従うと態度表明をしている。その上で、土佐と阿波の境目の城だけは例外として保有を認めてほしいと依頼する内容だった。 つまり、元親はすでに戦争回避へと舵を切っていたことがわかる。そして、この手紙は当時の通信事情を考えると、本能寺の変より前に斎藤利三のもとに届いた可能性は極めて低い。もし届いていたならば、光秀や利三の敗北に伴い廃棄されたであろうから、石谷家に残ったとは考えにくい。

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