
不幸が似合う激情型の「歌姫」が短命に終わりがちな理由をうまく言い当てている。
しかも、こういうタイプは生き方が不器用だったりして、トラブルも招きやすい。そういう人にとって、最近の芸能界はいっそう生きづらくなりつつもあるのだ。
12月5日に、鬼束の逮捕をとりあげた「ワイドナショー」(フジテレビ系)では、松本人志がこう言っていた。
「よくないことではあるんですけど、僕、そんなに偉そうにここで言いたくないかな。もちろん擁護するわけじゃないんですけど……最近、芸能人に清廉潔白と品行方正を求め過ぎているから、何かあんまりどうしようかな?と思っちゃいますね」
そんな世の中において、鬼束のような歌姫はもう時代遅れなのかもしれない。
とはいえ、そういう歌姫の歌だからこそ必要とする人は常にいる。どんな世の中でも、自分と世界のズレなどから生きづらさに悩む人はいなくならないからだ。
そういえば、バブル景気の余韻がまだ残っていた93年、森田童子の「ぼくたちの失敗」がドラマ「高校教師」(TBS系)の主題歌に使われ、ヒットした。同年に公開された映画版でも、彼女の「たとえばぼくが死んだら」が主題歌になっている。
森田は暗黒フォークの象徴みたいな歌姫だが、その9年前に引退。Jポップ全盛期には時代遅れなはずの歌が、多くの人の心を動かしたことに驚かされたものだ。
要は、こういう歌も、それを歌う人も、需要は常にあるということだろう。時代遅れに感じられつつある今こそ、その出現が期待されているのではないか。そんな気がしてならない。
●宝泉薫(ほうせん・かおる)/1964年生まれ。早稲田大学第一文学部除籍後、ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』『宝島30』『テレビブロス』などに執筆する。著書に『平成の死 追悼は生きる糧』『平成「一発屋」見聞録』『文春ムック あのアイドルがなぜヌードに』など