串田和美(くしだかずよし) 1942年生まれ。東京都出身。66年、佐藤信、斎藤憐、吉田日出子らと「自由劇場」を結成。75年、劇団名を「オンシアター自由劇場」に改め、「上海バンスキング」などのヒット作を生み出す。85年「シアターコクーン」芸術監督に就任。87年自主制作映画「上海バンスキング」で初監督。2003年まつもと市民芸術館館長兼芸術監督に就任(現在は総監督)。22年映画「PLAN75」に出演。(撮影/写真映像部・高野楓菜)
串田和美(くしだかずよし) 1942年生まれ。東京都出身。66年、佐藤信、斎藤憐、吉田日出子らと「自由劇場」を結成。75年、劇団名を「オンシアター自由劇場」に改め、「上海バンスキング」などのヒット作を生み出す。85年「シアターコクーン」芸術監督に就任。87年自主制作映画「上海バンスキング」で初監督。2003年まつもと市民芸術館館長兼芸術監督に就任(現在は総監督)。22年映画「PLAN75」に出演。(撮影/写真映像部・高野楓菜)
この記事の写真をすべて見る

「平成中村座」「コクーン歌舞伎」など、歌舞伎の演出でも活躍する串田和美さんが、50歳以上年下の演出家とタッグを組む。記憶が80分しか持たない、元数学者の「博士」の役だ。

【串田和美さんをもっと見る】

*  *  *

 昔から、“記憶”に興味があった。

 映画やドラマのように映像として後世まで残るものよりも、舞台のほうが好きなのは、人の記憶の中に曖昧に残るほうが本質的だと思ったからだ。

「それが舞台の宿命ですよね。そういえば昔、『上海バンスキング』を書いた斎藤憐さんと一緒に芝居をやろうってなったときに、斎藤さんの家の庭で、大道具を作ったことがある。そうしたら、近所に住んでいる彫刻家がフラッと庭に入ってきて、『君たちの仕事は、終わったら消えちゃうから羨ましいな。僕の仕事はね、残っちゃうんだよ。いったん手を離れたら取り戻すこともできないし、直すこともできない。自分が死んでも自分の作ったものが残っているということは、恐ろしいことでもある』。そう言って、笑いながら帰っていった。それを聞いて、確かに演劇っていうのは、残らない寂しさもあると同時に、『どうだ! ここにある全ては、公演が終わったら消えちゃうんだぞ!』って誇らしくもなった」

 それ以来、仲間と一緒になって、さまざまな舞台を上演しながら、「誰かの記憶の片隅にでも残ればいいな。記憶は消えても、その断片がもしかしたら脳のどこかにとどまって、子や孫の代で思い出すようなことだってあるかもしれない」と夢想した。

「本格的に芝居を始めてからは、お客さんは、この舞台をどんなふうに記憶するんだろうとか、そんなことをしょっちゅう考えていましたね。だから、今から20年前に小川洋子さんの『博士の愛した数式』を読んだときは、80分しか記憶の持たない博士にすごく興味が湧いて、ふと『ああ、いつか博士を演じてみたいな』と思っていたんです」

 あるとき、演出家の加藤拓也さんと雑談をしていると、話の流れで、「博士の愛した数式」を加藤さんが、まだ串田さんと出会う前、21歳という若さで舞台化していることを知った。串田さんはとても驚いた。

次のページ