──名所絵といえば、葛飾北斎も「冨嶽三十六景」を描いています。二人の違いはなんでしょう。
北斎はアーティスト気質、広重は職人気質です。北斎は自分をプロデュースしていましたし、生き方にも計画性がある。片や広重は、版元からの注文に従い、その要求にかっちり応えるスタンス。保永堂版の「五拾三次」が当たり、広重は東海道物を20種以上版行していますが、同じ構図や設定では描けない。だから同じ宿場でも対象物や角度を変えて描く。それもどう描けば庶民に響くかを常に考えながら。飽きさせない工夫をしていたようです。突出したランドマークがない宿場もありますよね。そういうとき、広重は雪を降らせたりする。雪で覆えば、雰囲気が出るから(笑)。でも実際はそんなに雪が降らない土地だったりする。「盛る」というか、朝と夜や、雪、雨、風、霧などの気候や季節を加えて、よりよく仕立てる大胆さがあります。
──ご著書『広重ぶるう』の中で、絵師としてはくすぶっていた広重が「ベロ藍」と呼ばれる外国製の絵の具・プルシアンブルーを使うことで、ガラッと評価が変わっていく様子を描いています。
「ベロ藍」が出てきたとき、絵師たちはみんな衝撃を受けたに違いありません。浮世絵初期の「青」は退色するのが当たり前で、その後に使われた「藍」は伸びがなく硬い。しかし、ベロ藍は透明感があり、なおかつ深い藍。広重は「この色、使える!」と快哉を上げたはずです。空、海にぴったりだと。たとえば、桑名の絵。海の色が、濃いところから薄く、上と下にぼかしていますよね。この技法は広重の名所絵によく見られます。「ベロ藍」だからこその水の表現が誕生したのです。もちろん摺師の協力も欠かせなかったでしょう。細かくぼかしを指示したと思います。
──広重が遅咲きの人生だったというのは、意外です。生活も苦しかったようですね。借金のために艶本を描いたり。
そもそも浮世絵師は、摺った枚数でお金をもらうわけじゃないので、人気と収入が比例しない。もちろん、多量の注文をこなせばお金になりますが。広重は下級武士の生まれですから裕福とは程遠い。人気絵師となってからも、晩年は家を建てたり、親戚の作った借金もあり、いつも生活は苦しかった。でもとにかく絵を描くのが好きだった。注文がなくてもふらりと町に出てスケッチをしている。一躍名を知らしめた「五拾三次」は、お役目で東海道を上ったときのスケッチが元だと言われていますが、既存の名所図会などを種本にしたというのが有力です。つまり取材費がかからない、けれど種本の風景の切り取り方がうまい。日頃の写生の賜物でしょう。版元は重宝したと思います。評判をとってからは、どの版元も「うちも東海道を」「うちも名所絵を」となっていきますが、今の作家と出版社の関係に似ているかも(笑)。人気絵師になった後には精力的に旅に出ていたようです。「好きこそものの上手なれ」って言いますが、広重は風景、そこに溶け込む人々のありのままの姿を描くことが大好きだったから後半生にそれが生きたのでしょう。