われわれは物ごとを分別して考えるところがありますが、どうも禅はいちいち理由など必要としないらしい。事実を事実として見なさい、そこに分別を持ち込むと、善とか悪とか、美とか醜(しゅう)とか、白黒によって物事を分別してしまうらしい。いや、そうしている。事実を事実として見るとは例えばこういうことかもしれない。

 卑近な例かもしれないけれど、例えば、満員電車の中でどこかの男に足を踏まれた。「痛い!」。ゴメンとも失礼しましたとも言わない相手にムカツク。だけど踏んだ相手が絶世の美女だったら、痛くも痒(かゆ)くもない。思わずニッコリして嬉しくなるかもしれない。これは踏まれたという事実を事実として見ていない証拠。分別して見ているのです。「痛い!」という事実は、先の男も美女も同じ。どうもわれわれは、そこに余計な考えを持ち込んでいるようです。禅は、事実を事実として見ることを脳細胞の考えではなく、身体細胞の教えに従う。

 坐禅は頭で悟るのではなく、身体を通して修得する教えであるらしい。だから禅寺を訪ねて、教えを乞おうとしても、何も語ってくれない。「只管打坐」。ただ黙って坐禅をしろという。坐禅は考えを捨てる行です。「捨てるという行為」さえ超える必要があるらしい。坐禅すると、雑念が次から次へと去来してくる。そのひとつひとつに心が引っかかるとダメだという。それを流しちゃえと言う。1回や2回の坐禅では観念からそう簡単に自由になれない。100回、200回でもダメでした。総持寺のあと、板橋老師が「あなたの疑問に答える禅寺は浜松の龍泉寺の井上義衍老師しかおられません。紹介しますから、一度訪ねてみて下さい」。

 井上老師は「何しに来られた?」と、いきなり難問(?)を突きつけられました。「ハイ、悟りに来ました」と大上段に答えました。すると「人間は生まれながらにすでに悟っています。悟った上にさらに悟りたいとおっしゃるのですか、その答えは坐禅が答えてくれます」と言われて、この日から1年ばかり、各地の参禅修行?が始まりました。そして何を得たか? 何も得ないことを得ました。

 ただ、そこで気づいたことは絵を描くことがすでに禅であること。目的も結果も意味も理由も「考えない」、ただ描くしかないということです。板橋老師はその後曹洞宗の管長までのぼりつめられた。「心配しなさんな。悩みはいつか消えるもの」。まだ、その「いつか」が来ていないけれど。

横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰

週刊朝日  2022年9月16日号

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