切り倒された木を譲り受け、染色に使うために小さく切り離していく坪倉さん(写真:坪倉さん提供)
切り倒された木を譲り受け、染色に使うために小さく切り離していく坪倉さん(写真:坪倉さん提供)

──集中治療室に入って10日後に奇跡的に目覚めた坪倉さん。自分がなぜ生き返ったのか、今までの自分ではなくなった状態でなぜ生きていなければいけないのか、長い間思い悩んだ。

 事故後は、人が何を考えているのか、どうして自分を見て悲しそうな顔をするのか理解できず、周りのみんなと噛(か)み合わない苦しさを感じていました。だんだんいろんなことを知っていく中で、自分をすごく特別にしてくれる、自分としても落ち着ける、安心できる存在が「お母さん」と呼ばれる人だということに気づきました。でも、お母さんは母さん、ママ、母親……といろんな呼び方がある。それは何が違うのか、僕はその人をどう呼んだらいいんだろうって迷っていました。

お母さまにとって一番大変だったことを尋ねると、何より「生きていてくれて良かった」(写真:坪倉さん提供)
お母さまにとって一番大変だったことを尋ねると、何より「生きていてくれて良かった」(写真:坪倉さん提供)

■母が涙を流した理由

──手記は坪倉さんの体験にお母さまの手記「母の記憶」を挟んで構成。母親の視点を加えることで、読者は坪倉さんに起こったことや彼の世界をより深く理解できる。

 母は、僕が書いた原稿を本になる前に読んだそうです。僕が記憶を失ってどれだけつらかったかを知り、涙を流したと聞きました。でも、僕は今も「母の記憶」に目を通したことがないんです。母が当時どう感じていたのか、病院のベッドで動かない僕をどう思っていたのかを知るのが怖くて。いつかは読みたいと思っているのですが。

──母の支えは坪倉さんの生き方を変えた。

 周囲にいる家族や友人が誰だかわからない状況に耐えきれず、家を飛び出そうとしたことがありました。その時、僕を止める母の頬にスッと流れるものがありました。当時、僕は涙や悲しみについて知らなかったけど、今までに見ていたものと違って、めちゃくちゃ罪悪感を覚えたんです。後々思い返すと、母も僕を早く元に戻してあげたいといろんなことに必死でした。アルバムを出してきてここにいるのが赤ちゃんだった頃の優介とお母さんだよと教えてくれたこともありました。あの母の涙は、記憶喪失の僕に何もしてやることもできない自分を責めて、思わず流れたのだと思う。その時、「もうそんな顔しないで、僕、二度と出て行かないから」と決めたんです。前向きに何にでも怖がらず挑戦するという自分に切り替えることになったきっかけもそこにあったと思います。

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