ドラァグクイーンとしてデビューし、テレビなどで活躍中のミッツ・マングローブさんの本誌連載「アイドルを性(さが)せ」。今回は、「安倍晋三元首相の国葬」について。
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先月からテレビのリモコンが見当たりません。外に持ち出すはずもなく、要するにテレビのリモコンが見当たらなくなるぐらい家が散らかっているということです。よってここ数週間、家でテレビを観ていません。世の中の出来事はネットニュース頼み。おまけに、尻に敷いても壊れないと評判の拡大鏡を足で踏み潰してしまったため、スマホの画面もよく見えず、世間で何が起こっているかほとんど把握できていない状態です。
そんな情報弱者に成り下がった女装オカマの耳にも、先に亡くなった安倍元首相の国葬に対する賛否の声は聞こえてきます。安倍さんほどの人でなくとも、誰かが亡くなった直後というのは、様々な感情論も含め「喪失ハイ」に陥りがちなので、しばらく経ったらある程度の「揺り返し」が起きるのは予想していましたが、日本人としては聞き慣れない「国葬」なる言葉にやたらと敏感な人がなんと多いことか。
言ってみれば「国葬」も、国を挙げてのイベントという意味ではオリンピックや万博(厳密にはどちらも都市開催ですが)と同じです。ただこればかりは、何年もかけて議論するような案件ではありません。仮に是非を考えるのであれば、果たして今の日本に「国を挙げてのイベントを催す必要性があるかないか」だと思います。
前回の国葬は1967年。吉田茂元首相が亡くなった時でした。この頃の日本と言えば、その3年前に初めてオリンピックが開催され、新幹線や首都高が開通。まさに敗戦からの復興と経済成長を国単位で実感し、それを諸外国に見せつける「大義」があった時代です。無論、吉田茂も安倍晋三も同じくらい偉大な首相であったことに変わりありません。しかし、ふたりの決定的な違いは、政治的功績でも国際的知名度でも任期や人気でもなく、この「時代」の差なのではないでしょうか。