『ペアレントクラシー 「親格差時代」の衝撃』
朝日新書より発売中

 これまで何冊か本を書いてきたが、出版社からの提案で書いたのは、この本『ペアレントクラシー』が2冊目となる。1冊目の時は、そのテーマでいつか書きたいなと思っていたため「渡りに舟」という感じだったが、この本は異なる。朝日新書の編集者大崎さんからのオファーがなければ、このテーマで本を書くというアイディアが心に浮かんでくることなど決してなかっただろう。本書は、そのような「出生の秘密」を有している。

 さて、ペアレントクラシーという言葉を見て、「親の『クラシー』って何?」と思われた方もおられただろう。「クラシー」とは、「〇〇が支配する社会」という意味の接尾語である。「アリストクラシー」は、貴族(アリストクラット)が支配する社会である。「デモクラシー」とは、大衆が主役の社会である。したがって、「ペアレントクラシー」とは、「親が支配する社会」となる。言葉を補って表現すると、「子どもの人生にとって親が果たす役割がきわめて大きい社会」のことである。この言葉の生みの親であるイギリスの教育社会学者フィリップ・ブラウンは、そこでは、「家庭の富と保護者の願望」という2つの要素がカギとなると議論している。

 今はやりの言葉で言うと、「親ガチャ」の社会ということになる。バブル崩壊後の格差社会化の進行によって、どのような家庭に生まれ落ちるかが、子どもの人生や将来を決める度合いはたしかに強まったように思われる。「ガチャ」とは、ご存じのように、景品が入ったカプセルを購入する形式のことで、ガチャガチャなどともいう。カプセルの中身を選択することはできず、何が入っているかは取り出すまでわからないという特徴がある。子どもにとって家庭を選択することはできない。どんな環境のもとで育てられるかは、生まれてみるまでわからない。「親ガチャ」、最初は奇妙に感じたが、なるほど言い得て妙の言葉である。

 本書のなかでも、具体例を引きつつさまざまな形で言及したが、子どもたちが生まれ育つ家庭環境は驚くほど異なる。大学や大学院に進学することが当然視されている家庭生活を送る子どもたちがいる一方で、学校教育から早々に脱落し、10代後半で社会の荒波のなかに飛び込んでいく子どもたちもいる。同じ日本社会に住んでいながら、彼らの人生行路はほとんど交わることがない。

 それは、かつての身分制社会、先に使った言葉で言うならアリストクラシーの世の中でも同じだったのではないか、と思われる方もいるだろう。それはそうだ。アリストクラシーの世の中では、人々は、社会的に定められたカテゴリーのなかで人生を送っていた。すなわち、武士には武士、農民には農民の暮らしがあった。お互いの生活はかけ離れており、身分違いの結婚はタブー視されていた。社会構造の下位に置かれた者たちにとって、上昇移動のルートはほぼ閉ざされており、彼らには彼らに許された生活を送るしか選択肢はなかった。

 ペアレントクラシーの世の中は、少なくとも理屈のうえではそうなっていない。そこでは、原理的には、身分や階級のカベは存在しない。子どもたちは、自由に自らの力を伸ばし、自らの進路を選び取ることができる。かつての社会が集団ごとに分断された社会だったとすると、現代社会は諸個人(諸家庭)が横並びに位置づけられるアトム化された、いわば「何でもあり」の社会である。自らが所有する富と希望によって、何をやってもよいのである。その結果、一方では、幼稚園から大学まで私学に通う層がおり、他方では、学校に行かない外国人や不登校の子どもたちが多数にのぼるという、教育界の現状が生まれることになる。

 問題は、おそらく次の点にある。すなわち、身分制社会では、自らの不遇を社会のせいにできたが、今はそうではないということである。ペアレントクラシーのもとでは、子ども・若者の不遇は、自己選択の結果として、彼ら自身の責任に帰されがちになるということである。「育ち」は親が決めるが、その帰結は本人のせいにされるという不条理に、現代の子ども・若者はさらされている。

 社会経済的に恵まれない家庭に生まれ育つ子どもたちは、十分な学力を身につけるチャンスに恵まれないことが多く、結果として学校教育のメリットを享受しにくい。それに接続するのは、不安定な就労や結婚生活である。他方、恵まれた家庭に生まれ育つ子どもたちの将来も、必ずしも順風満帆というわけではない。本書では、大阪大学の学生たちの声を多く紹介したが、彼らには彼らの悩みがあり、煩悶がある。「わが子に幸せを」と願う親の一途な思いや高すぎる期待が、彼らの生活に深く影を落とし、彼らを自縄自縛の状態に陥らせることもある。子ども受難の時代である。