仕事に限らず、それ以後、何でも「すぐやる課」の実践によって、僕はいつも一日の時間の進行の遅さに、退屈するくらいです。とにかく、「明日やろう」という引き延ばし作戦はよほど体調の悪い時以外は無視することにしています。このことによって時間の概念が変りました。絵を描くのもやたらと早いので、僕は自分をアスリートと呼んでいます。

 そして時間がありあまります。その時間を何かで埋めるというようなことはなるべくしないで、何もしないことをする無為の時間のために活用しています。アトリエのソファで横になったり、バルコニーに出て、アトリエを囲む森の樹木のフィトンチッドを浴びたりして、出来るだけ頭を空っぽにする時間を作ります。その空っぽの時間を閑暇だからといって読書などはしません。読書で人の言葉で頭の中をいっぱいにしてしまうよりも、できるだけ、言葉以外の無心を楽しむことにします。僕の場合、絵は考えから発想するのではなく、考えないことから発想する、コンセプチュアルアートとは全く逆行の態度から作品を作ります。

「何でもすぐやる」ことで、時間を越えて多くのことができるようになりましたが、老齢になったこの頃は、そのあまった時間を埋めつくしてしまうのではなく、そのあまった時間をもっと拡張することのできる無為の状態を「考えないこと」を考えることで「創造」することに切り換えたのです。これは子供の頃の時間の再現のような気がします。子供時代の時間は大人になってからの時間より、うんと充実していました。

 子供は何かにつけて、無心になって物事に夢中になって三昧(ざんまい)時間を遊びます。だから、子供時代の時間は長く感じます。子供は三昧という無心時間を遊ぶ術を知っているんでしょうね。この三昧時間が体験できなくなった時から、人は子供時間から大人時間に入って行って、時間を縮小して、忙しい生活に切り換えてしまうように思います。そしてストレスという産物を生んでしまいます。僕が「何でもすぐやる」生活に切り換えてからは作品の点数もうんと増えたし、なんといっても一日の時間がうんと長くなりました。

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